アヴェスターにはこう書いている?
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山口修 『台湾の歴史散歩』

54年3月、蒋経国は第二期総統に、陳誠が副総統に選ばれた。陳誠は米国の援助によって、農地改革や工業発展の計画を推進した。
 しかし米国の政策転換によって、台湾への経済援助は1965年6月末をもって打ち切られた。これは台湾にとっては痛手であったが、米国にかわって日本政府が多額の円借款を供与することになる。日本との関係は、いよいよ密接となった。(p.29)


冷戦という構造のもとでの同じ陣営内では経済支援がなされた。東西のボーダー付近では特にこの協力関係は緊密絵であったように思われる。



 総統府および新公園を中心にして、(北)忠孝西路一段、(東)中山南路、(南)愛国西路、(西)中華路に囲まれた地域は、旧台北城内であった。(p.44)


旧台北城の位置。個人的には結構小さいという印象を受ける。



 かつてはほとんど人家もない湿地帯であったが、日本人によって西門や城壁がこわされ、さらに成都路の南に西門市場(現在)が開かれて以来、いわゆる西門町は繁華街として発展していった。その名ごりは現在まで伝わり、百貨店から飲食店、映画館などが立ち並び、とくに若い男女たちがあふれている。しかし現在では、市街の東部も開けるにいたって、西門町の雑踏も、往年のようなすさまじさは薄れるようになった。(p.47)


蘇州などは都市の西部に城門があることによって、その城門の外の市場が栄えたというパターンだったが、台北の場合は門が壊されたことによって発展したというのは面白い。



 萬華の地は、台北において最も早く開かれたところであり、台北市外の発祥地ともいうことができよう。古く、このあたり一帯を占めていた原住民は、西方を流れる淡水河に丸木舟を通わせて、交易を営んでいた。かれらの言語では、丸木舟をMounganと呼ぶ。やがて渡来した漢族は、この語を音訳して艋舺と漢字を当てた。この語で長く呼ばれたが、日本の統治時期に、同音の“萬華”に改めたのである。
 さて淡水河をさかのぼって進出した漢族は、艋舺の地に移り住みつき、原住民を追い立てて、しだいに市街地を形成していった。こうして19世紀の前半(道光年間)、艋舺は全盛期をむかえた。当時は淡水河の水深もふかく、船舶の往来も便利であった。大陸の沿岸から渡来した巨船も、みな艋舺の岸、いまの貴陽街と環河南路二段との接したあたりに横づけされた。人口がふえるとともに、市街地も東方にむけて広げられていった。
 しかし19世紀なかばすぎ(咸豊の初め)、福建省の泉州から移住した泉人と、その後に漳人との間に、勢力の争いが起こされる。争いに敗れた泉人の大部分は、北方に去っていった。このころから淡水河の水深も、土砂の堆積によって、しだいに浅くなる。船舶の出入りに不便をきたすようになって、交易の中心は北方の大稲埕(→p.53)に移ったわけである。(p.52)


台北市街の歴史的展開を語る上で出発点となるのはこのあたりか。

台湾北部の物資の集積地となった場合、淡水だけでなく、後背地の状況も捉えることが望ましいし、淡水の開港などの要因も同時に捉えたいところである。



しかも、ここの問屋街は、業種ごとに固まっており、南京西路に近い南のほうから、布地・薬種・乾物・雑貨・穀類というように、商品の種類が変わってゆく。かつて大稲埕では、19世紀の後半に同業組合を結成していた。その名ごりが、今日まで残っているといえよう。(p.55)


現在の迪化街についての説明。イスラーム世界のスークなどでもエリアごとに扱う商品が固まっているが、中東では場所と商品の種類にもある程度の相関関係があることが多かった。迪化街の場合はどうなのだろう。



台湾では「紀念」という文字が用いられている。もちろん日本語の「記念」にあたる。わが国でも、大正時代までは「紀念」と書いていた。この「紀念」は、日本でつくった新造語であり、中国の古典で用いられたのは「記念」である。つまり「紀念」は日本から逆輸入した表現である。(p.59)


中国語には日本語からの逆輸入が結構あるが、日本語と中国語で「紀念」と「記念」を相互に輸入して逆転して定着しているのは面白い。



 1895年に台湾が日本の領有となってから、基隆港は日本本土と結ぶ台湾の玄関口として、大いに発展した。当時、台北へ達するには、まず船で基隆港に上陸し、そこから縦貫鉄路によって台北へむかったわけである。
 当時の市街は、港湾をはさんで東西に区分され、西を大基隆、東を小基隆と呼んだ。大基隆は漢族の移住者によって、まず開かれた街区であり、鉄道の基隆駅もここに設けられた。これにたいして小基流には、日本人の居住者が多く、近代的な都市計画も日本人によって立てられた。こうした植民地時代の名ごりは、現在まで残っている。(p.92)


台湾と北海道を比較するという私の視角からすると、基隆と台北の関係は、北海道における小樽と札幌の関係と通じるものがある。本州からの玄関口である小樽とその背後に比較的早期に建設された鉄道で結ばれた政治的中心地に定められたところがあるというパターンは同じであるように思われる。歴史的な形成の順序などは多少違いがあるかもしれないので、今後、これらの都市の歴史をもう少し掘り下げてみたいが、その入り口として基隆-台北と小樽-札幌という着眼点は持っておきたい。

ちなみに、一応、素人目に見ても明らかに違うと思われる点は、小樽がその後の経済発展から取り残されて古い建築が結果として残ったのに対し、基隆はそうではないらしい、ということである。



 しかし日本が統治するにおよび、淡水河の上流域における山林の伐採が進められたため、土砂が流れこみ、河床が年ごとに高くなっていった。淡水の港内にも土砂が積もって、浅くなる。さらに基隆の築港が完成するにおよんで、淡水は貿易港としての繁栄をまったく奪われるにいたった。(p.97-98)


港が浅くなったというのが、台湾の歴史を学ぶとよく出てくるが、こうした背景をもう少し詳しく知りたいものである。



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