アヴェスターにはこう書いている?
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殷允芃 編 『台湾の歴史 日台交渉の三百年』(その2)

 十九世紀の台湾がたどった歴史の発展の跡を探すとしたら、大稲埕(現在の台北駅の西北方、淡水河に近い一帯。迪化街はその一部)は間違いなくうってつけである。
 現在の淡水河の九号水門、あるいは十一号水門沿いから市中心部方面に向かう大稲埕一帯は、建ち並ぶ建築物にも文化の多様性が随所に見てとれる。石を建材に使ったバロック風の洋館は、屋根の両側に山形の壁が高く突き出しているのが目立ち、簡単な幾何学模様を描いた壁、柱、手すりには、十九世紀ヨーロッパの近代的な理性の精神が垣間見える。ところどころに混じっている閩南風の小さな家は、反った屋根の頂上部を赤い瓦が彩り、軒が歩道を突き出し、赤い煉瓦と土の壁が人の目を引きつける。
 上海や日本の横浜、長崎がそうであるように、土地の様式に西方風の特色が入り混じったこうした建築には、東方の都市が近代西方に相対した時に受けた衝撃の歴史が刻み込まれているのである。
 大稲埕はもともと平埔族が住んでいたところであり、清代中期以前は少数の漢人と平埔族が農耕に従事していた。稲の籾を干す広い空き地(稲埕)があったことからこの地名がついた。
 1853年、大稲埕の艋舺(現在の万華)一帯にあった「行郊」で械闘が発生した。「行郊」というのは当時の台湾商人組織の名称であり、各種の商会(商業会議所に似た団体)の前身にあたる。貿易のために海を越えて台湾にやってきた商人は、商談をし、情報を交換し、資金のやりくりをするために、さまざまな「行郊」を組織した。業種中心の行郊には糖郊、塩郊が、また地縁中心のものには厦郊、泉郊などがあった。
 この時艋舺で発生した械闘は、福建省の同安人がつくった「下郊」と三邑人からなる「頂郊」との争いだった。結局「下郊」の同安人が負け、最初北方の大龍峒に逃げたが、そこに住む同安移民に受け入れられず再び大稲埕に舞い戻り、淡水河沿いに商店を開き、街並みをつくった。大稲埕は淡水河の水運があって交通至便だったため、たちまち各地の郊商がここに吸い寄せられてきたのである。
 1860年以前の大稲埕の勃興に見られるこのような足どりは、台湾の歴史においてはとりたてて珍しいことではない。
 河港であっても船舶が入れるほどに広く、相当規模の人口が収容可能な土地があり、勤勉な移民を擁し、加えて貿易による利益という共通の目的と、同郷同族からなるさまざまな「行郊」とを持つ大稲埕は、台湾の他の港町と同様、わずか十数年の間に台湾と大陸市場を結ぶ貿易圏に組み込まれていった。(p.169-170)


大稲埕の歴史。台湾経済が世界システムに取り込まれるプロセス。



 貿易による繁栄が台湾に利益をもたらさなかったもう一つの重要な原因は、貿易の利益が茶栽培農家や茶取引業者や台湾中南部の樟脳商人の懐に入らなかったことである。金融を支配するという手口で台湾の輸出貿易をがっちり握っていたのは、実は外国の貿易会社であった。
 茶産業の例では、中国人業者が業界の競争に参入する以前には、台湾茶の加工から輸出に至るまで、イギリスの貿易会社の一手独占だった。貿易会社が茶の供給を支配する手段に使ったのは茶栽培農民に対する貸付であり、農民は金を貸してくれる会社に頼りきりになった。……(中略)……
 1870年以後になって中国人業者が取引に参入すると、イギリスの貿易会社は策略を変えた。中国人が経営する茶行は、扱い量こそ多かったが規模は大きくなかったから、イギリスの会社はやはり仲買商的な「媽振(マーチェン:マーチャントの音訳)館」なるところを通して、これら小茶行に融資をした。……(中略)……。次々と資金が転貸されたあげく、結局利息を全部払わされるのは茶葉の生産者である農民であった。
 外国の商人や貿易会社は、このように金融を独占するという手段で台湾茶の輸出をがっちり握ったばかりでなく、砂糖や樟脳などの輸出でも同様の方法を使って利益を独り占めした。後の日本統治時代にも、商社がやはり金融を通じて砂糖の生産及び運搬・販売の全プロセスを押さえたのであった。
 台湾の開港は、台湾経済に一時は新たな高揚をもたらしたものの、当時は便利な交通網が建設されていなかったために、台湾経済はさらに発展してゆくチャンスを逸した。(p.177-178)


19世紀後半から20世紀前半は金融を用いた権力行使が世界中で自由に行われた時代であり、台湾にもそうした動きは波及していた。



 交通による連絡が不便だったことが、この時期の台湾経済のいま一つの特色を生み出した。それは、経済が個別に拠点型の発展を遂げ、さらに場所によってきわめて大きな差異が生じたことである。台湾大学歴史学部の呉密察教授の分析では、日本による統治以前の台湾の経済形態は、基本的には一つ一つの貿易港がそのまま市場を形成し、それぞれの港がその後背地を貿易品の生産・消費地にするというものであった。(p.179)


台湾という島は陸続きであるため、あたかもそれが一つの単位であるかのように扱われることがしばしばあるが、日本による統治以前には経済圏としてはまとまったものではなく、それぞれの港とその後背地が別々のシステムの一部であった

こうした状態は台湾に限らず、よくあることであった。



 福沢が求めたのは「文明」ではなく「覇権」にほかならなかった。(p.271)


なかなか日本の著作家はここまで直截に福沢諭吉を評することはないだろうが、彼が求めていたのは「文明」という衣装をまとった「覇権」であったと思われる。



 康寧祥に言わせれば、当初倭人統治をよしとしなかった台湾人の「漢人意識」は、日本軍の台北入城を前に自分たちが生き延びる道を求めた時から、一部の人の間で漠然とながら「台湾人意識」に転じていったという。(p.288)



これは上で引用した「日本による統治以前の台湾の経済形態は、基本的には一つ一つの貿易港がそのまま市場を形成し、それぞれの港がその後背地を貿易品の生産・消費地にするというものであった」ということとも関連する。台湾島には共通の経済圏が形成されておらず、全島的な統治組織も存在していなかったため、同じ島に住んでいても特に共通の利害によって結ばれることもなかったし、あったとしても意識されるような情報が流通することもなかった。よって、「台湾人」という意識は生まれなかった。

しかし、下関条約によって「台湾」が単位として清国の領土から日本の領土へと組みかえられることによって、「台湾」という土地に共通の利害関係が生じ、その利害関係が多くの島民に意識されるようになった。この利害関係の意識がこの時期の「台湾人意識」なるもののコアの一つであると思われる。

但し、この「台湾人意識」はすべての島民に共有されたようなものではない。



 台湾の隠田は、清朝の統治システムが緩やかで、支配能力が脆弱だったことを象徴する存在である。土地は民間での売買や強奪を通じて封建制度の一部を形成していた。(p.300)


なるほど。



 台湾大学医学院の現在の建物は建て直されたものだが、医学校時代のフランス・ルネッサンス風の漆喰建築は、記念のために特別に保存されている。(p.306)


機会があれば見てみたい。



 台湾における日本当局の教育の重点は、徹底した短期実利主義に立って実学を重んじ、当局に忠実で法を守る国民を育てることにあった。植民地人民の思想啓蒙は顧みられず、従って台湾人子弟が政治学、法律学、哲学などの人文科学、社会科学などを学ぶことは禁じられた。(p.350)


当局が道具として使いやすい知性を啓蒙し、当局に批判的になりやすい知性は与えようとしなかった、と言い換えてもよいだろう。

実学重視というのは北海道大学の特色でもあった。北海道と台湾の類似性に着目する私の視点からすると、この点は興味を引く。



 日本は台湾で中等・高等教育を施すことには積極的ではなかった。台北帝大にしても1928年になってようやく創立され、しかも南洋侵略の人材を育てることが主目的であった。台湾が中国本土の華南や南洋にきわめて近い地理的位置にあるので、これら地域を侵略するための調査と研究には好都合だったのである。(p.351)


教育機関の設立目的や機構などから、当時の政策の方向性を見るのは興味深い着眼点であるように思われる。


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