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佐藤啓子 『赤レンガ近代建築 歴史を彩ったレンガに出会う旅』(その2)

 イギリス人の意識では、今でも、煉瓦造りと言えば、どこか「簡便なる建築」という感じに受け取られていて、それは日本人が赤煉瓦に抱く、ある種の高級感とは、まったく正反対のところがある。(p.149)


石造建築が主流か木造建築が主流かという点が、この感覚の相違の一つの要因だろう。レンガ造はこの中間程度の重厚さを感じさせる。また、日本以外の多くの地域ではレンガ造の建築は中国でも朝鮮でも中東でもヨーロッパでも比較的一般的に見られ、材料としても近場で比較的安価に作られる(石材や木材を調達するよりは一般に低コストであろう)から、「特別なもの」という印象はないと思われるが、日本では風土などの問題もあってレンガ造の建築は根づいていないからレンガ造建築にはどこか「特別のもの」「舶来もの」という感じが付きまとい、それが「高級感」に結びついているものと思われる。



 さて、我国では、建築は基本的に「屋根」から進化してきたもので、壁というものは、歴史的にあまり考慮されなかった。・・・(中略)・・・。
 なにぶん、煉瓦建築は「壁本位」の建築であって、構造的に窓を大きくできないので、イギリスのような冷涼な、そして乾燥した夏を持った国には適切でも、日本のように高温多湿な夏の国では、どう考えても、適応から外れるのであった。まさに兼行の看破したとおり、「夏を旨とすべき」家が、煉瓦で造った場合は、「冬を旨として」造られることになるのだから、そこには居住の快適性機能性の上で大きな問題があったわけである。
 ・・・(中略)・・・。
 しかし、工場とか倉庫とかいうような耐火性能を問われるような建築物には、鉄筋コンクリート以前の時代、煉瓦は真向きの材料であった。窓が小さいということも、あの伝統的蔵造りと同じく、こうした用途にとっては好都合だったのである。それゆえ、現在残っている多くの煉瓦建築が、こうした非居住目的であるのは当然であった。(p.149-150)


かなり興味を引かれた箇所。

日本では建築は屋根から進化したというのは、かなり大雑把というか雑な把握の仕方であるということはできるのだろうが、寺院建築などを中国の建築と比較して私が感じたこととも通じる面があるように思い興味が引かれた。すなわち、日本の寺院建築は中国のものよりも屋根が大きく、雨を防ぐ機能が重視されており、かつ、美観の上でも屋根が建築の美しさを高めているという印象を強く持っていたので、「屋根から進化した」と言われると、そういう面もあるかもしれないと感じられる。

雨が多く、湿気が多い気候から、確かに雨を防ぎ、風通しがよい建築が求められ、それは屋根に重点があり、壁はできるだけ少なくなるというのは納得できる。

レンガ建築が工場、倉庫、鉄道関連施設、軍事施設などで使われたのは、引用文で指摘されている耐火性のほか、基本的には安価で修復等もしやすいなどの経済性(日本の場合、時刻で生産できる体制が整うまでは高かった時期もあるようだが)や堅牢性、耐久性なども大きな要素だろう。これらの施設にはこれらのいずれもが求められる。



 そうして、よくよく考えてみると、現在はまた価値観が一順して、モダニズム、あるいはポストモダン的なものが行き着くところまで行き着いてしまって、かえってレトロスペクティヴなものに対する憧憬、いわゆる懐古趣味が脚光を浴びるようになってきた。
 各地の港湾倉庫などを、取り壊さずに、これを補強復元して、さまざまの目的に再利用していくという趣向の伸長は、とくに近年めざましいものがある。

 ただ、私はちょっとそこに危ういものを感じるのは、イギリスのたとえばテムズ河畔の工場・倉庫群の再利用などと比べると、日本のそれが、どうも「観光客」本位という感じがしてならないことである。・・・(中略)・・・。


同感である。

まずは、現在、モダニズムもポストモダニズムも行き詰っており、レトロスペクティヴなものが再評価されているという点。日本はこの傾向が顕著かもしれない。(中国の都市部などではポストモダニズム的な奇抜な高層ビルが次々と建てられており、必ずしも引用文の見方は全肯定はされない。それでも美しい小鎮(村)を残して観光地化しようという動きはあるようで、日本などと同様の傾向は見られる。)

これはグローバル化が進む中、ある種の防衛反応として、ナショナリズムや土着性への回帰へと人々の意識が向けられていることと無関係ではないように思われる。モダニズムやポストモダニズムのような国籍や歴史とは切り離されたイメージのあるものではなく、土着の歴史にアイデンティティを見出そうとする動きが世界各地で見られる。

建築に限った話ではない。歴史教育や歴史学などを見ても、90年代以降の中国で排外主義的な傾向を持つ愛国主義的な教育がなされていたことや、台湾でも、それまで教えることがなかった「台湾史」が1997年頃から学校で教えられるようになったり、日本でも「愛国心」や国旗・国歌などがやたらと称揚される傾向が90年代頃から急速に強まった。EUではフランスとドイツの歴史教科書の共同研究などが見られたが「国」単位ではなく「ヨーロッパ」を単位として、それを土着のものとして再定義していく方向性があるのではないか。

私自身も確かにこうしたレトロなものに関心が高まっているのだが、建築にかんしては、明らかに近隣諸国を旅行したことが反映しているのであり、その意味ではグローバル化の一部(国境を越えた人の往来の自由化)が土着のものへの関心を高めているとは言える。そして、現代が金融グローバル化の時代であるが故に、同じく金融グローバル化、金融自由化の時代であった19世紀後半から20世紀前半に関心を高めているのであり、これもある意味ではグローバル化へのリアクションである。


さて、引用文の筆者が懸念する「観光客」本位の保存という傾向にも同感である。これについては次の引用文で的確に批判されている。




 ただ、観光客にだけ受けようという再生の陰で、観光の目的にかなわないロケーションにあるものは、容赦なく破却されていく、という現実を目の当たりにしながら、その破壊する者の視線と、ただただ西洋の象徴として憧憬するばかりであった者の視線とには、根の深いところで共通するものがあるように、私には思える。
 それは、建築というものを、私どもの歴史的環境として着実に視認するのでなくて、一過性の流行的オブジェクトとして使い捨てにするという、まことに非歴史的な視線と心根とを感じるからである。(p.153)


西洋の象徴として憧憬するばかりであった者とは、文明開化の時代の日本の人々のことを指している。

これらの現象の背後もやはりグローバル化があると私には思われる。

「観光客」本位というのは表面上にすぎず、実際には「経営者」本位または「投資家」本位というのが、観光産業の現状であり、「観光産業によるレトロなものの保存と破壊」のバックグラウンドであり、レトロな建築は彼らの金儲けのための手段にすぎない

過去の「西洋化=近代化」を目指した時代に、西洋風の建築は、対外的には欧米列強に認められるための手段として建てられた面があり、対内的には権威を誇示するための手段でもあった。

いずれも建築の日常的な用途とはズレがあるという点では同じである。ただ、後者の方がやや持続性はあるようには思うが。


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