アヴェスターにはこう書いている?
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佐藤啓子 『赤レンガ近代建築 歴史を彩ったレンガに出会う旅』(その1)

 サッポロビール博物館は、明治二十三年、札幌製糖工場として建てられたものだ。札幌麦酒会社(現サッポロビール)が買収したのは十三年後。(p.12)


台湾と北海道の類似性について最近興味を持っていたところだったので、この叙述に引っかかった。同じ時期、台湾でも製糖業が盛んだったはずだからである。

ウィキペディアでサッポロビール博物館を調べてみると興味深い事実が書かれていた。記載されていた内容に私の知識を加えてまとめなおしてみる。

まず、札幌農学校に来ていたお雇外国人であるクラーク博士(Boys, Be ambitious!のフレーズで有名な人)が北海道における甜菜栽培と関係があるということ。すなわち、彼が学長をしていた大学であり、札幌農学校がお手本としていたマサチューセッツ農科大学は、当時「全米屈指のテンサイ製糖技術を持っており、クラークもテンサイの栽培を北海道へ定着させようという希望があった。クラークの帰国後、開拓使は北海道内でのテンサイの導入に着手」したという。

その後開拓使は1878年、札幌農学校へテンサイの栽培を委託し、1879年に紋鼈製糖所を建設するなどした。その後製糖所は民間へ払下げとなる中で、1888年に札幌製糖株式会社が創立され、1890年にテンサイ糖の工場が建設された。この工場が今のサッポロビール博物館である。

しかし、1895年の日清戦争後、日本が台湾を植民地化した。台湾はもともと製糖業が盛んであったが、日本の資本が入って以降は更に製糖業の生産体制を整えていった。また、台湾をめぐる交易ルートは日本による領有以前は中国大陸との交易が多かったが、植民地化以後は日本向けの移出に切り替えられたため、日本「内地」(北海道も含む)の甜菜製糖業は台湾糖業に対抗できず衰退し、「札幌製糖株式会社のテンサイ糖工場も解散となるが、札幌麦酒会社が1903年にこれを買収。建物に増改築を施し、製麦工場として運用した」とのこと。

私としては、台湾と北海道の類似性に気づくようになってから両者についての興味が増していたところだったが、ここでは類似性というより関連性が見えてきて興味深いところであった。

ちなみに、クラークから直接教えは受けていないが、開拓使から甜菜栽培を委託された札幌農学校の第二期生である新渡戸稲造は「民政長官時代の後藤新平の下で台湾の製糖業の再編に協力している」。



 本書で登場する赤煉瓦建築は、鉄道施設や工場、倉庫、軍事施設など幅広い。都心部の庁舎や銀行、洋館などは思いのほか少ない。この傾向は、現在まで残った建築の種類や本書の嗜好にもよるのだろうが、歴史的な必然性も併せもっている。
 幕末から明治半ばまで、洋風建築の中でも官庁や銀行など格調高い建築は石造風仕上げや漆喰塗り仕上げが好まれた。構造は煉瓦を積んでつくったもの(煉瓦造)であっても、表面を石積み風、あるいは漆喰塗りで仕上げていたのだ。煉瓦をそのまま外壁に露出した建物は、工場や倉庫、鉄道施設や軍事施設などに多かった。旧日本銀行京都支店、東京駅、大阪市中央公会堂など、都市部に華やかな赤煉瓦建築が建つようになるのは、主として明治後半から大正半ばのことであった。それでも赤煉瓦のオフィスビルは以前少数派で、倉庫や工場が主流であることに変わりはない。
 こうした歴史によるのか、「レンガ」よりも「煉瓦」という表記に親しみを感じる世代の方の話をうかがうと、刑務所や工場など、煉瓦に対してネガティブなイメージをもっている場合が少なくない。また、日本で有名な煉瓦造建築は原爆ドームや浦上天主堂など、戦争遺産であることも多い。時代によって煉瓦に対するイメージが変化し、いまや現代建築が失いかけている魅力を備えた材料として、憧れや回顧の対象となってきたのだろう。(p.101)


酒井一光氏のコラムより。

前段については、私も本書を読んでいて赤レンガは建築の用途が産業遺産や戦争遺産などに多く、それ以外のものは少ないと気づいたときに、このコラムを読み「やはりそうか(赤レンガ建築には用途的に特定の方向性を持っていたのだ)」と思ったところである。

また、レンガ造の建築物でも「幕末から明治半ばまで、洋風建築の中でも官庁や銀行など格調高い建築は石造風仕上げや漆喰塗り仕上げが好まれた」というのも、思い当たるフシがあると、なるほどと思えた。例えば、日本銀行旧小樽支店は竣工が1912年であり明治と大正の境目にあたるため、この記述とは時代的には多少のズレがあるが、石造に見えるように仕上げられている。レンガ造よりも石造の方が重厚な印象を与えるため、権威を示す必要がある建築にはレンガよりも石造の方が向いているということだろう。

レンガがそのまま露出しているものは、権威や富を誇示するための金をかける必要がない、より実用的な建物に多いと考えれば、納得がいく。

明治後半以降にレンガ造の建築が都市部にも建設されるようになった原因については説明されていないように思うし、私としても疑問に思うところ。ただ、レンガはそれまでの日本で主流だった木造などと比べると重厚な印象を与えることができ、その頃には国産のレンガも製造可能になっていたことなどから、石造や石造風仕上げをするほどには金をかけずに、それなりの威厳がある建物を建てるというニーズがあったのかもしれない。少なくともレンガの国産化はかなり大きな要因だろうと思われる。

また、レンガのイメージが時代と共に変わってきたとする指摘も鋭いと思う。

モダニズムのような装飾のないものは面白みに欠け、ポストモダニズムのような装飾はどこか浮ついていて落ち着かない(バブル時代のような熱気で浮ついた時代には似つかわしいだろうが)という時代に、レトロなもの、復古的なものに魅力を感じ始めている人が増えているのではないか。

また、幕末から明治時代と現代との間に重なるものを感じる人が増えているのではないだろうかという感じもする。赤レンガには明治の「香り」を感じているのではないか、という気がする。そして、明治と現代の類似性はあながち外れていないのではないか、というのが私の見立てである。というのは、いずれも「グローバル化」が進展した時期であり、特に金融や資本移動や貿易などにおいて「強者の自由」が増大した時代であるという点で共通であり、そうであるが故にいずれの時代も未来が不透明な激動の時代であると感じられており、同じ「激動の時代」への共感が呼び起こされているのではないか。

人々がどのように感じているか、という部分についてはなかなか実証することが難しいが、建築意外の分野でも似たような動きがあるということを指摘していくことはそう難しくはないと思われる。

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