アヴェスターにはこう書いている?
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キャロル・デイヴィッドスン・クラゴー 『建築物を読み解く鍵』

ゴシック復興はピクチャレスクといさらに大きい運動の一部で、造園もピクチャレスクの対象だった。(p.42)


私はゴシック建築が好きなのだが、リバイバルにも少し興味をひろげてみようかと思う今日この頃。ピクチャレスクについて、具体的にどのような運動だったのか、少し余裕ができたら調べてみることにしよう。



 イングランドでは、愛国心の表現として重要視されたのがゴシック復興様式だった。中世後期の信仰の篤さと市民の徳性を具体的な形にしようと試みたわけである。したがってロンドンの王立裁判所(図)や国会議事堂など、イングランドで19世紀に作られた主な市営建築物の多くがゴシック復興様式を採用した。(p.43)


ゴシックリバイバルが愛国心を表現するものとされた、という話はしばしば耳にしたことがあったのだが、なぜそうなのか、という点は結構曖昧だった。この説明で一応の理解はできたように思う。ただ、ゴシックのような市民的ではない教権制的権力における支配層が用いた様式を、一般市民のものとして再解釈するというのは、どうも的外れのように思われる。



レンガはローマ帝国全土で用いられていたが、その後ヨーロッパ北部ではレンガに関する技術が失われ、中世後期になるまでそのままだった。(p.52)

初期のガラスはすこぶる高価で大きなものを作るのが難しかったため、ガラス板1枚のサイズは小さかった。古代ローマ時代にはガラス窓が使われていたが、中世にさしかかる頃にはほとんど姿を消してしまった。(p.62)


以上はほんの例にすぎないが、ローマ帝国とヨーロッパ北部(概ねアルプス以北の地域)とは文化的、技術的、知的などの面でほとんど連続性がないのである。一時的にローマ帝国の版図に入っていたことがあるのは事実であり、そこから文化的な影響があった時期があるのは確かだが、支配するために南部からやってきた人々が彼らの生活スタイルを維持しながら(そのための技術等を伴って)やってきたというだけであり、現地に住む先住民たち(支配下に入った一般庶民)に深く浸透したわけではない。

しばしば「ギリシャ・ローマの文化はヨーロッパ文化の源流」などと言われるが、こうした見方は皮相的な誤ったものであるといわざるを得ず、ギリシャやローマの文化は西ローマ帝国の滅亡の前後に北方への流入は止まってしまい、大部分が失われた、という認識は持たなければならないだろう。こうしたフレーズが言われるようになる理由はむしろ以下のような動きによるところが大きいのである。

すなわち、

 18世紀の半ば、学者のあいだで古代建築をくわしく調べる研究が始まった。(p.86)



といった動きである。

もちろん、12世紀前後のイベリア半島(いわゆるレコンキスタが行われていた)におけるアラビア語文献を介したギリシア・ローマの文献のラテン語への翻訳運動やイタリア・ルネサンスを経由して伝播したものがないわけではないが、上述のような言説はむしろ、18世紀頃に国民国家化が進展する中で、「国民」としてのアイデンティティが模索され、歴史研究や考古学的な研究の中にその材料が求められる中で、「われわれヨーロッパの優れた文化」の祖先として古代ギリシアやローマ帝国の文化が、「われわれ(ヨーロッパ人)」にとっての「古典」であるとして発見、意味づけされ、また、実際に模倣したスタイルの建築が次々と建てられていく中で作り出されてきた言説であろう。(この過程では「われわれ」の文化とギリシア・ローマの文化のどちらが優れているか、という議論などが交わされていたことが思い出される。)

建築についても、ギリシアやローマのスタイルを積極的に取り入れるようになったのは、新古典主義が流行した時代であり、それ以前はルネサンス様式が北方で受け入れられた限りで見られたにすぎないと思われる。ルネサンス様式はイタリア半島で比較的流行したもの、即ちアルプス以南の様式であり、イタリアにおいてはローマの遺産は北方よりは多くの程度引き継がれていたことを考えると、その時代のイタリアの真似をしたからといって、北方の地域がローマの後継者とは言えないだろう。それは日本が明治維新の時期にヨーロッパのスタイルを多用したからといって、「日本の近代建築のルーツはローマ帝国であり、ローマ帝国の建築は日本の(近代)建築の源流である」というのは無理があるのと同じである。これは間接的にローマのスタイルが入ってくるとしても、あくまでも同時代の他地域からの影響にすぎない。

これと比べると、上記引用文の場合は、直接、古いギリシアの建築などを研究してそこからスタイルを借りてくるわけだから、古代ギリシアからの影響を受けて作られた、とは言える。ただ、それは歴史を通じて脈々とヨーロッパ北部に流れ込んできたものではなく、その時代になって国民国家形成の際のナショナル・アイデンティティを形成するプロセスにおいて、「これがわれわれのoriginである」として捏造されながら取り込まれたものであろう。

これはゴシックリバイバルが上記のコメントで述べたように、的外れな形でアイデンティティ形成に利用されたことと同質的な現象であると思われる。



ジェファーソンは王権や帝政と結びつけられがちなローマ様式ではなく、民主主義的なイメージのあるギリシャ様式を意図的に選んだ。(p.210)


新古典主義(18世紀後半に流行)がローマよりギリシャの神殿などを模したものが多いことの理由がはっきり分かった気がする。

国民国家とは異なる原理で運営されている帝国のイメージがあるローマ様式ではなく、デモクラシーが行われていたというイメージのあるギリシャ様式が、特に共和制の、王のいない政府にとっては似つかわしいと考えられたということ。アメリカやフランスがその典型。

これに対し、皇帝や封建諸侯や王権が存在していたドイツやイギリスは、むしろゴシック・リバイバル(18世紀後半から19世紀に流行)の方が新古典主義より勢いがあったように思われる。

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