FC2ブログ
アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

マルク・ブロック 『封建社会1』

ガリアやイタリアの哀れな都市にはバグダッドやコルドバの華麗さに比肩し得るものは、長いあいだ何もなかった。12世紀まで、イスラム世界はビザンツ世界と並んで西ヨーロッパに対して真に経済的覇権を握っていた。(p.10)


ブロックは12世紀までと言っている。確かに、後世になって「十字軍」と呼ばれる軍事遠征によって「フランク」がレヴァントに侵攻した。恐らくブロックはこうした事実などをもって「イスラム世界」が「西ヨーロッパ」に対する覇権を失ったことを示していると考えたのだろう。

しかし、世界史的に見れば、たまたまこの11~12世紀頃の歴史的シリアは政治的分断化が進んで衰退し、東からはモンゴルとそれに追われるようにトュルク系の人々が押し寄せてきた時期に相当する。「フランク」の面々はそうして東地中海のムスリムの勢力が弱体化したところにつけこんで、彼らの世界に入り込んだに過ぎない。

実際、その後のマムルーク朝の繁栄やさらに後にはオスマン朝の脅威は「西ヨーロッパ」を遥かに凌駕し続けていたのであり、経済的にも「ヨーロッパ」はほとんど常に赤字だった。なぜなら、豊かな中東地域の人々に対して貧しい「ヨーロッパ」の人々には売るものがなかったからである。

ブロックは「封建時代の第一期」――11世紀中葉頃まで――には「西ヨーロッパ」は「オリエント」との経済的関係で赤字だったとしているが、この関係は概ね18世紀頃までは変らなかったのである

 封建時代の第一期のヨーロッパは、全く後向きに生きていたのではなかった。ヨーロッパと隣接諸文明との間には、交流の道が一つならず存在していた。最も活発な道は、恐らくヨーロッパとイスラム教のイスパニアとを結びつけていたものである。多数のアラビア金貨が、この道に沿ってピレネ山脈の北側に浸透し、そこで頻繁な模造の対象となるほど珍重されたのである。これに反して西地中海にはもはや長距離の航海がほとんど見られなくなった。オリエントとの主要な連絡路はそれとは別のところにあった。・・・(中略)・・・
 この通商はこのように極めて少数の交通網に集中されていたうえに、非常な貧血常態にあった。さらに悪い事に、収支は明らかに赤字であったらしい。少なくとも、オリエントに対してはそうであった。西ヨーロッパは、近東諸国から、重量に比して非常に高価で、輸送の費用と危険とを償って余りある若干の奢侈品のほかはほとんど買い付けなかったが、その見返りに奴隷のほかはほとんど何も提供するものがなかった。・・・(中略)・・・東地中海はこの商品を豊富すぎるほど自給し得たので、極めて多量に輸入する必要はなかった。この奴隷売買の利益は結局かなり低いものであったため、ビザンツ世界、エジプト、近東の諸市場で奢侈品や香料を購入する費用を償うに不十分であった。そのために、銀の、特に、金の緩慢な流出が生じた。(p.64-65、下線は引用者による)



このようにヨーロッパでは、貨幣も自前で造るより「アラビア金貨」やそれの「模造」を使っていたし、それよりも重要なことには、中東に対して売るべき産品がなかったので、奴隷を売るしかなく、それでもなお赤字だったので金銀が流出したわけである。後にヨーロッパ諸国は中南米から銀を大量に手に入れるが、その多くが中東に流れ込んだという事実が加われば、上の私の見解の妥当性は確保される。そして、実際にそうだったのである。

歴史観としての「ヨーロッパ中心史観」は、現代の私たちにはほとんど避けがたく浸透している。それは最近100~200年ほどの欧米諸国の政治経済的な優位という状況を過去に不当に投影したものに過ぎないのである。
スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/6-c6d135d1
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)