アヴェスターにはこう書いている?
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矢内原忠雄 『帝国主義下の台湾』(その1)

 当時にありては台南地方一帯の海岸線は深く東方に湾入し、台南城市の西端は直に海に瀕み、一内港を形成して居た。この内港を台江と称した。その外屏として数個の小嶼沙洲断続し、鹿耳門は外海より台江に入る水路であった。当時の台江は「汪洋浩澣にして千艘を泊すべし」との良港であった。オランダ人は之を占領し、その外屏の一島嶼たる一鯤身(今の安平)にゼーランデア(Zeelandia)城を、又之と相対せる台江の内岸赤嵌(今の台南)にプロヴィンチア(Provintia)城を築いた。台江はその後地盤隆起及泥沙堆積のためその地形を一変するに至ったものである(伊能嘉矩著『台湾文化志』上巻997頁以下)。(p.11)


当時とは1624年頃のこと。台南も近日訪問予定なので、その歴史にかかわる記述として記録しておく。

地形が現在とは違ったという点は押さえておきたい。



 1858年天津条約による台湾の開港以来英米独等の資本が台湾に接触し、清国商人の勢力を凌駕して貿易及金融の権を掌握するに至った。彼らは多く厦門を根拠地と為し、当時の台湾貿易は大部分対岸及香港に対するものであった。我が領台の効果はこの商権を移して内地資本家の手に帰し、貿易路を転じて内地に向けしむるにあった。(p.34)


欧米の勢力が台湾に来た際にも、欧米諸国の目的地は中国本土であったために、台湾の経済は大陸と結びつきが強かった。日本による領有はこの関係を大きく変えた点に一つの大きな意義がある。このことによって、後日、台湾が冷戦体制における「西側」に配置されることが相対的に容易になったものと見られる。



 次に、茶の輸出は1869年英国商人ジョン・ドット(John Dodd)が約21万斤を紐育に直輸したるを嚆矢として頓に盛となったのであるが、爾後厦門を根拠とせる洋行が茶輸出を独占し一面金融機関として強大なる勢力を有したるを以って、製茶売買価格は洋行の為めに独占的に決定せられその利益は壟断せられた。即ち徳記其他の洋行は厦門の外国銀行より資金を仰ぎて之を媽振館に、媽振館は更に茶館に、茶館より生産者に前貸し、之に対して製茶の一手買取を約せるものである。(砂糖買取についても同様のシステムであった)。而して洋行に対して金融を与へたる銀行は主として香上銀行であった。かの東洋に於ける英国資本活動の中枢たるHongkong & Shanghai Bankであったのである。台湾がイギリス帝国主義の圏内にありしことを知るべきである。之に対して挑戦せる我資本の戦士は三井物産及野沢組であって、明治40年頃より茶貿易に従事し、外人商館は英商3、米商1を残すのみとなった。(p.35)


台湾がイギリス帝国主義の圏内にあるということは、当時のイギリスが中国へ進出を目指す野心とその実力を持っていたことの反映として捉えておくべきだろう。

また、本書から触発されて興味が引かれたのは、台湾における「三井物産」の活動である。恐らく台湾に限らず活発に活動していたものと考えられるが、当時の日本の帝国主義的な活動を追っていくあたっては、政策や行政体制、言論状況や社会における差別の状況などに注目しがちだが、こうした「民間」の「資本」の動きがどのようであったかということも同時に注目しなければならない。その際の具体的な研究対象の一つとして、三井物産は極めて重要な位置を占めているように思われる。



又総督府は航海補助金として近年は毎年140万円を交付して命令航路に従事せしむ。内地台湾間の受命会社は日本郵船及大阪商船にして各々三隻の汽船を就航せしめ、何れも一万噸級の善美快速船である。日本郵船の二隻は昭和三年迄六千噸級の老船であったが、最近同じく一万噸級船を以って之に代へた。蓋し総督府は補助金交付標準を高むることによりて内台間の連絡を改良し、遂に一万噸級の就航を要求せるものである。かくして今や欧洲航路米国航路に勝るとも劣らざる高級客船が六隻も神戸基隆間を航海しつつある。(p.82)


日本郵船は「国策会社」であったということを先日、この会社の建築についての本(『近代商業建築を観る』)を読んで知ったところだったので興味が惹かれた部分。

この会社は1890年代頃から1930年代頃にかけて非常に勢いがあり、1937年には保有船腹量で世界一となったのだが、台湾への航路拡大に関するこの会社の動きも、これと全く軌を一にするものである。政府の政策によって就航し、船舶も補助を受けて大きくなっている。船が新しい大型船に変わった昭和3年は、西暦1928年であり、まさにこの会社が最盛期へと向かう時期である。

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