アヴェスターにはこう書いている?
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若林正丈 『台湾――変容し躊躇するアイデンティティ』(その1)

「海のアジア」とは「外に開かれたアジア、交易のネットワークで結ばれた資本主義的なアジア」であり、「陸のアジア」とは「内に向いたアジア、郷紳と農民のアジア、農本主義的アジア」であり、この二種のアジアの境界はあたかも「気圧の谷間」のように歴史的に動いてきた。・・・(中略)・・・。
 巨視的に見れば、台湾史とは、このような意味での「海のアジア」と「陸のアジア」の「気圧の谷間」が台湾という「場所」を行ったり来たりした歴史であると比喩することができるだろう。この「気圧の谷間」が台湾海峡より東にあれば台湾は中国大陸の影響力におおわれ、西に動けば中国の影響力低下の間隙をついて海洋勢力などの影響力が伸長する。(p.18-19)


台湾という場所に注目して歴史を概観する場合に有益な図式。

もっとも、台湾に中国の影響が強く及んでいた――「気圧の谷間」が台湾の東にあり、台湾が「陸のアジア」に属していた――のは、主として清代くらいのものであり、それ以外の時期は基本的に海洋との結びつきが強かったようである。特に下関条約により日本の植民地となってから冷戦が終結するまでは、「海のアジア」に属してきたと言えるが、冷戦終結により台湾と中国の関係も大きく変化しつつある中で、ある程度の説明する力を有する図式である。

しかし、この図式をそのまま使って未来に当てはめると少し誤った判断をくだす部分がある。というのは、冷戦後は台湾は上記引用文が規定するような意味での「陸のアジア」になるわけではないからである。むしろ、中国が「海のアジア」に包摂される格好になっているのであり、そのようにして台湾と中国との間を隔てていた壁がなくなったということなのである。



 「黒船」を率いて江戸太平の眠りを醒ましたアメリカのペリー提督は、江戸幕府の返答を待つ間、部下を台湾北部に派遣して港湾や炭坑の調査をさせていた。(p.26-27)


当時のアメリカ政府がどのような目的で太平洋を渡ってきたのかが伺えるエピソードと言えよう。



 18世紀の乾隆期以降、台湾への移民が急増すると農業資源獲得の競争は厳しくなった。より有利に土地開発を進めるため移民は出身地別の村落を形成することになり、土地や水利をめぐり日常的な緊張がこれらの村落間に生じる状態のなかで、些細なきっかけから、泉州人、漳州人、そして客家人が武器を持って集団で争闘する事件が頻発した。これが台湾史上に知られる「分類械闘」である。「分類」(「類」、つまりある特徴によって集団に分かれる現象)は、これら三者のそれぞれの間に、さらには如何なる組み合わせの間でも生じた。したがって、この時期、台湾社会においては、漢族・先住民族関係に加えて、泉州人・漳州人・客家人の間に、社会的政治的に意味のある境界が存在したといえる。これは、出身地と言語をもって分かれるのであるから一種のエスニックな境界であったともいえよう。
 しかし、19世紀に入ると移民の波も下火となり、かつ清朝の地方行政機構も次第に整備され、社会秩序も落ち着いていった。これとともに、漢族移民の中には、台湾の移住地に祖先を祀る祖祠を建立する傾向が現れ、「唐山祖」(唐山は中国大陸のこと)を祀るのではなく、「開台祖」(台湾での血縁集団の基を築いた祖先)を祀るような宗族組織の形成が進み、「分類械闘」が発生しても、出身集団別のものとならず、宗族間対立によるものが増えていった。大陸社会集団の直接の延伸ではない、台湾に根をおろした漢族社会組織の成熟が進んでいったのである。(p.34-35)


このブログでもたびたび宗教という現象は、信仰の問題というよりも政治団体としての教団の形成から考える方が理解できると書いてきたつもりだが、後段の部分はまさにその好例であるように思われる。

台湾に根をおろした後は、大陸よりも島内でのネットワークの方が経済的政治的な利害に結び付くようになっていくため、宗教による集団形成もそうした利害関係に基づいて再構成されたということだろう。

なお、前段は「台湾人」というナショナリティ(アイデンティティ)が昨今求められているようになりはしたものの、そうしたものは過去のこの島には存在しなかったということを示している点で重要な意味を持っているといえよう。ちなみに言えば、日本もその点は同じであり、他の国もほぼ同様である。

なお、台湾に一つの政治的な単位として成立するようになったのは、確か本書でも指摘されていたと思うが、実質的には日本統治期に入ってからである。



 アヘン戦争の結果、清朝は南京条約により広東、上海、廈門など五港を開港させられたが、英仏との第二次アヘン戦争(アロー号戦争)の結果、1860年北京条約で開港場追加を余儀なくされた。その中には台湾の台南と淡水が含まれており、その後まもなくそれぞれの「子港」として、打狗(後の高雄)と鶏籠も開港された。(p.39-40)


近々、台湾を訪問するが、台南と淡水には行ってくる予定になっている。その際の予備知識としてメモしておく。



 また、この時期の経済発展は、台湾の社会経済の重点を開発の起点だった南部から北部に移すこととなった。北部には茶の生産に適した丘陵が多く、樟脳の原料採取に適した森林は北部から中部にかけて存在していた。このため、北部にはこれらの集散地として小鎮が発達した。そして、それらの集散地からの産品輸出のための商業地区として、台北盆地を流れる淡水河河畔に艋舺(後の萬華)が、ついで大稲埕が栄えることになったのものこのためである。日本統治下に入っても、戦後の中国国民党統治下でも、萬華や大稲埕は台湾的特色の強い区画として外来の統治者の治める首都で土着の息吹を発散し続けることとなった。(p.41)


「この時期」とは北京条約(1860年)以降、特に1870年代以降の時代を指す。

茶や樟脳が北部の小鎮に集積され、それが台北の淡水河に面した地域である萬華や大稲埕に集まって取引されるようになったということ。淡水河の下流には北京条約で開港された淡水がある。台北の発展はこの淡水の開港と深くかかわっていそうだ



地域的には、中央政府機関や高等教育機関が集中する北部と、そうでない中南部では、社会における国語や母語の使用頻度に大きな違いがあり、また同じ本省人でも社会における多数族群である福佬人と少数族群である客家人とでは、こうした事態への対応の仕方も違った。客家人のほうが言語的同化には総じて積極的にならざるを得なかったと思われる。(p.114)


日本統治期の言語政策による対応も地域や族群によって反応が異なっていた。


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