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アヴェスターにはこう書いている?
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周婉窈 『図説 台湾の歴史』(その1)

しかし東アジア諸国の相互認識は、観光と大衆文化のレベルにとどまったままで、歴史の深みに欠けているように思われる。現在問題になるいくつかの事件は、東アジア各国の戦前の歴史的経験が、今も依然として作用していることを教えてくれる。(p.6)


確かにその通りである。但し、批判的な歴史認識に耐え得ない人々も多いことを考えると、あまり「強い個人」を仮定してはならない。強いて言えば、やはり報道(特にテレビと新聞)や政治家の発言が深い相互認識に裏打ちされたものになることがまずは必要であるように思われる。

そこが正されれば、自ずと一般人の認識も同じ方向に導かれる傾向を示すであろう。



21世紀の初めは、戦争を経験した世代が、その経験を深く考え、語り伝えることのできる最後の機会であり、戦後の各世代が過去を正しく理解し、正負の遺産を直視することによって、冷静さと公正さを保ちながらも、積極的に東アジアの平和と共生の道を求めることのできる新しい時代である。(p.6)


ここでの「戦争」とは第二次世界大戦を指すのだろう。「戦後」にもベトナム戦争やそれ以後にも中東などでは戦争は続いていたことを考えれば、それらの地域では事情は異なっているから。

21世紀初頭は第二次大戦を経験した世代が経験を語りうる最後の時代であるという指摘は非常に重要である。特に歴史学者やメディア関係者にとっては非常に重要な指摘であるといえる。今後は「史料」の提供を受けることができなくなるのだから。

歴史を完全に総決算する事はできないにしても、政治の力などによって隠されてきた、見えなくされていた事実を当事者が語ることには大いに意味がある。そうした仕事を大いに進め、広く知らしめてほしいものである。



私たちは、オランダ東インド会社の統治地域が台湾南部を中心としており、その勢力もしくは「教化」が南部に限られず、細々ながら北部の若干の拠点と卑南地方〔台湾の東南沿岸部〕一体にも及んでいたとはいえ、中部・北部及び中央山脈以東の大部分の先住民にとって、オランダ東インド会社の存在は、あまり関係のないものであった。私たちが「オランダ時代」と呼ぶとき、オランダの支配の及ばなかった「地域」や「人間」までもその中に囲い込んでしまっていないだろうか。この種の強引な歴史区分に対して、私たちはしっかりと問い直さなければならない、「これは誰の歴史なのか」と。(p.10)


正しい。

日本史でも例えば「奈良時代」と呼ばれている時代は東北や北海道に当時住んでいた人々にとっては、その時代のこととして描かれている事実は、あまり関係のないことだっただろう。特に「国」を単位として歴史を考えてしまうと、常にこうした誤った理解を誘発する事態に頻繁に出会うことになる。以前は現在の人間が自然と思い浮かべるような「国」などなかったからである。

台湾の歴史における「オランダ時代」も日本史における「奈良時代」も、いずれも「文字を持つ支配階層の歴史」である。「誰の歴史なのか」という問いかけは、いわゆる社会史などが一般化してきた、最近30~40年の歴史学の動向からして当然の問いであり、本書のような一般読者でも読めるように意図された本でも指摘される機会が増えてきているのは良い傾向である。



人びとの経験は日に日に一致する傾向にあり、お互いが同じ時間の流れに生きていることを比較的想像しやすくなっている。しかしこれは現代社会特有のものであり、われわれが過去を想像するとき、できる限りこうした「同質化」を過去に当てはめてはならない。(p.11)


同意見。

過去の人の目にその時代の出来事がどのように映っていたかを考えるとき、必ず想像力に頼らなければならないが、その際に注意すべき点の一つである。なお、20世紀初頭の台湾でさえ「同質化」を当てはめることは慎まなければならないことが本書のこの箇所では例示されている。



まず私たちが必ず理解しなければならないのは、私たちが属する時代はナショナリズム(nationalism)の隆盛の時代であり、世界を構成する単位は国家なのである。それは必ずしも国民国家(nation state)である必要はないが、帝国ではなく、また部族でもない。ナショナリズムという公理のもと、帝国は必ず瓦解する運命にあり、一方部族は建国せぬわけにはいかない。(p.12)


こうした点に注意を促した後、著者は「一つの国家あるいは国家たらんと希求する社会は、「自己」の歴史を必要とする」(p.12)と述べ、このように「地理的空間から一個の社会的集団〔原文は「社群」〕あるいは国家民族〔原文は「国群」〕の共同の歴史を追憶するのは、近代社会に普遍の現象である」(p.13)と指摘し、「台湾史」を叙述する際に、どのように民族集団と歴史単位の問題を処理すればよいのか、と問題を提起する。

地理的な範囲を特定して歴史を叙述する場合、この問題には究極的な答えは得られないのではないだろうか。範囲を設定したこと自体が、そして、その範囲がなぜ選ばれたのか、ということ自体が理論付加されたものだからである。

この問題については「なぜその範囲を選ぶのか」という理由を自他共に明示した上で叙述をするという姿勢がきわめて重要であるように思われる。その点、本書は政治的な主張は行わない、などと随所で断っておきながら、叙述の基本的な方向性は「台湾独立派」に近いと考えられる点で、やや不誠実さを感じる。

例えば、従来の「台湾400年の歴史」という考え方は漢族のものであり、原住民を視野の外においてしまう傾向などを指摘したり、台湾が中国の王朝に組み込まれたのは実質的に清代だけであり、清朝も台湾への関与は消極的なものにすぎなかった点を強調することなどは、「台湾は中国の一部ではなかった、一部であっても大陸とは基本的に異なっていた」という政治的主張に根拠を与えるものであり、これは台湾独立派に好都合なロジックであり、また「事実」でもある。本書の叙述にはこうした方向性を示すものが多い。

ここで振り返って、本書が「台湾の歴史」として書かれる理由は、「台湾」が現在、実質的に一つの政治単位として作動しており、それは実質的には一つの「国」と呼びうる状態になっているという現状認識があるはずであり、それを前提として「台湾史」が構想されている。そこから大陸との関係に着目することとなり、上述のような事実が導かれてくるという流れになっており、上記のとおり「なぜ台湾史なのか」を明示しておくことで本書のスタンスをより明確化させることができるように思われる。

(同じく「台湾史」を描くにしても、例えば、エスニシティに着目して、台湾の住民のほとんどが「漢族」であることを強調すれば、「台湾は中国の一部」という主張に好都合な事実を集めやすいだろう。もっとも、こうしたやり方で主張を組み立てたとしても、総合的に見れば、本書の立場の方が妥当性は高いと私には思われるが。)


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