アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

片倉佳史 『台湾に生きている「日本」』

 台湾総督府による統治機構が完成しつつあった大正期は、治世の安定とともに、各種産業が発達した時代でもある。この時期には数多くの産業施設や公共建築が設けられた。中でも官庁舎は台湾総督府内に設けられた営繕課が設計を担い、威厳を強調した建物が各地に建てられていった。
 建築物については、当初は赤煉瓦建築が大半を占めていたが、1923(大正12)年の関東大震災以降は耐震構造への関心が高まり、鉄筋コンクリート造りの建築物が増えていくようになる。(p.16)


近々台湾に行く予定だが、建造物の構造や材質が時期により変化している。現地で見てくる際には、こうした点にも注目してみたい。



現・国立台湾博物館(旧・台湾総督府博物館)

 植民地における博物館というものは、等しく統治者の視点で運営される。ここもその例外ではなく、総督府が自らの治績を内外に向けて宣伝しようとする意図が随所に感じられる。つまり、日本人が台湾統治の妥当性を強調するための展示空間だったともいえる。
 しかし、この建物を前にすると、その風格は為政者たちの思惑をすっかり超越してしまったかのようである。また、統治者の目線とはいえ、文物や収蔵品を民衆に閲覧させるという教育的観点が当時、すでに備わっていたことも注目したい。そして何より、当時の日本の建築水準がいかに高いものであったかを知ることができる。そう考えれば、この博物館を訪ねる意味は決して小さくない。(p.50)


この建物については、私が行った際、現地でどのように感じるか楽しみである。

日本の植民地化は――他の植民地宗主国では宗主国化であったのに対し――「日本化」ではなく「西洋化」であったと周婉窈という台湾の歴史学者は指摘しているが、この建物がギリシア建築風なのは、まさにそれを最もよく示すものかもしれない。



現・台北市当代芸術館(旧・建成尋常小学校)

 建物の正面に立ってみると、左右対称のシンメトリーが美しい。正面の屋根部には鐘楼が設けられている。かつての教室は展示室となっており、小部屋がいくつも並んだ様子は、確かに学校らしい雰囲気である。建物は二階建ての赤煉瓦造りだが、屋根には黒瓦が載せられており、やや独特な印象だったという(現在は改修済み)。
 この赤煉瓦と黒瓦の組み合わせは、台湾では各地で見ることができた。日本式の屋根を抱いた赤煉瓦建築とでもいおうか。現在も68ページで紹介する台北高等商業学校(現国立台湾大学法律学院・社会科学院)のほか、新竹州庁舎(現新竹市政府)や台北帝国大学(現国立台湾大学)の一部などに同系統の建物が見られる。(p.64)


左右対称で中央に鐘楼があるというパターンは明治の頃の日本の大学の校舎建築などでも見られたパターンであるように思われる。それと似たパターンが小学校でも用いられているのは興味深い。

また、赤煉瓦と黒瓦を組み合わせた「日本式の屋根を抱いた赤煉瓦建築」というのも、どんなものなのか気になるところ。



旧・台北州立公共浴場(現・北投温泉博物館)

 公共浴場は二階建てだった。一階部分は煉瓦造りだが、二階部分は木造という構造だった。これはハーフティンバーと呼ばれ、台湾では大正時代から昭和初期に多く見られたスタイルである。(p.82)


台湾で建築を観る際の知識としてメモしておく。



総督府は基隆や台北などの北部から支配体制を固めていったため、治安の安定した北部と政情不安な中南部という構図ができあがってしまった。そんな状況を受け、鉄道は中南部の攻略と物資輸送に大きな役割を果たすことになる。
 ・・・(中略)・・・
 不安定な政情の中、縦貫鉄道は物資の輸送のみならず、統治機構の中枢である台北と中南部の各都市を結び付けた。大規模な輸送能力を誇る鉄道は、人員や物資の輸送を円滑にする上で、想像をはるかに超える重要な役割を担っていたのである。(p119-122)


縦貫鉄道が開通したのは1908年である。日本が統治を開始したのは1895年であり、しばらくの間は台湾の統治は安定していなかったことがわかる。

治安の安定した北部と政情不安な中南部という構図ができあがったという点は重要である。抵抗運動と統治機構とのせめぎあいがあり、ある種の均衡を保っていたことになる。鉄道はそのバランスを大きく支配者側に傾かせることになったものと思われる。



台南駅

 この駅舎のスタイルは昭和時代初期に多く見られたもので、当時の典型的なターミナル建築と言えるものである。箱形の建築母体を組み合わせたデザインで、装飾を排してすっきりとした外観になっているのが特色だ。これは赤煉瓦を用いた古典的な西洋建築の様式から、機能性や耐震性を重視したモダニズム建築への過渡期によく見られるスタイルである。
 こういった駅舎は台湾では現嘉義駅や旧台北駅にも共通している。そして、外に目を向ければ、上野駅(1932年)や小樽駅(1934年)、旧大連駅(1937年)などにも繋がりが見える。これらは整然と並んだ窓枠が美しく、館内の最高が考慮された造りとなっている。いずれも交通の要衝として栄えたターミナルで、時代性が感じられる。(p.140)



モダニズム的な駅舎というものは、かなりシンプルなので、あまり興味を持たずに見ると、何も気づかずに素通りしてしまう。これらの駅舎のスタイルが古典的な西洋建築の様式からモダニズムへの過渡期のスタイルだというのは、言われてみれば確かにそうかもしれない。

また、窓枠の美しさなども、例えば小樽駅などでは現在はランプが吊るされていて、なかなか良い味を出しているので観光客が良く写真を撮ったりしている。上記の指摘には納得させられるものがある。

なお、台南駅の駅舎が竣工したのは1936年であり、上野、小樽、大連とほぼ同時期のものである。



 戦後、日本では「怨みに報いるに徳を以ってする」という言葉とともに、蒋介石は寛大な人物というイメージが一人歩きしていた。この「聖人」の実態は、公共財産を私物化したり、言論弾圧を施したりと、国民党政府が台湾で行ってきた無数の暴挙を考えれば、見当違いであるのは明白だ。しかし、多くの日本人がこういった認識を抱いていたという事実は忘れてはなるまい。(p.235)


 最近は蒋介石と言ってもピンと来ない人の方が多いかもしれない。名前だけは知っている、とか。



北京語で育ち、北京語しか話せない若者が社会に出た後、多数は言語である台湾語の必要性を痛感させられるという話はあとを絶たない。(p.240)


先日知り合った新しい台湾の若い友人も、仕事をするようになってから台湾語が必要になって少し勉強していると言っていた。こうした多言語社会について日本にいるとあまり想像できないのだが、世界的に見ると、かなり多くの地方は多言語社会であるように思われる。

インド、イラン、中国などがすぐに思い浮かぶ。アメリカもそうかもしれない。

ふと思ったのだが、日本では翻訳書が多いが、これは出版業界が保護を受けてきたというだけでなく、日本が実質的にはほぼ単一言語の社会になっていることも要因なのかもしれない。



スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/582-126b3585
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)