アヴェスターにはこう書いている?
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内藤朝雄 『いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか』(その3)

 学問系にせよ技術習得系にせよ、あらゆる認定試験に共通の原則として、学習サポート業務と資格認定業務を分割することが必要である。この分割によって、教員(学習サポート・サービスを提供する従業員)は、「おまえの運命はおれの評価しだいだ。おれの気分のいいようにしろ。おれのことをないがしろにしたら、どういうことになるかわかっているだろうな」といった、誇大気分の役得をむさぼることができなくなる。(p.230)


学問や資格に関する評価では、こうした修得過程でのサポートと評価を別々に行えるため、その方が確かにベターではあるだろう。

私がこれを読んですぐに思いついたのは、普通の仕事における評価は、少し前まで成果主義や能力主義などということがうるさく言われていたのだが、悉く失敗した感があるということであり、仕事における成果主義の適正な運用は事実上不可能であるということである。

上記の引用文の考え方で言えば、仕事においては、仕事を一緒に行ったり上司としてチェックしたりする業務と、業務の実績を評価する業務とを全く別のところで行うということは事実上不可能なことが多いのである。(売上高などが明確に出る営業などの極めて限定的な業務で、しかも、その同じ業務を行っているものの間だけでの相対評価は外部の者でもできるかもしれないが、それでも売り上げを上げた後のクレーム件数や顧客の満足度の違いのようなものがある可能性は否定できず、そこまで視野に入れて評価することは外部の人間にはほぼ不可能である。)



 従来の学校を愛する人は、旧学校型ユニット抱き合わせ団体にバウチャーを払って参加することもできる。
 このように考えると、現在の共同体型の学校生活に慣れていて、それを好む人々は、評価と指導が分離するという点以外では、これまでとまったく同じ学校生活を送ることができる。ただ、選択の自由があるだけである。(p.234)


もっともらしい説明であるが、バウチャー制の説明で隠されている点がある。それは選ばれる側の教育サービスにはそれぞれキャパシティがあるということである。共同体型の学校とそれとは違うタイプの学校が選べるとしても、それぞれのサービスを提供する側のキャパシティによっては、自分が選択したい側のサービスを受けられないということが頻繁に起こるだろうと予想される。サービス提供側からすれば、低コストで提供でき、利益が上がりやすいもののキャパが増える一方、短期的に見て利益が出ないようなものは、どれほど教育を受ける側の需要があったとしても(少なくとも民間主導でサービスが提供される限り)十分なキャパシティを持ちえないであろう。



 全体主義の核心は、個に対する全体の、人間存在の深部(ふかいところ)にまでいたる圧倒的優位である。そのうえで、その優位を成立させる制度・政策的な道具立て(たとえば一党独裁や秘密警察やしつこいイベント動員など)が問題になる。
 この全体の圧倒的優位は、個の存在様式(ありかた)に対する余儀ない浸透性(貫通性)の深さによって示される。ファシズム、ナチズム、スターリニズム、戦中の天皇教日本国家主義などの国家全体主義と単なる独裁とを分けるメルクマールは、ひとりひとりの人間存在を変更する集合的イベントへの動員が、日常生活を覆い尽くす度合いである。あるいは国家によって無理強いされる、距離をゆるさぬ「根がらみに生きる」様式のきめ細かさである。
 ここで注意したいのは、全体主義は単なる独裁とは異なる、ということだ。独裁国家なら、現在でも世界にあふれている。このような国では、非公式の暴力組織や秘密警察があり、政権に逆らう者は投獄されたり殺されたりする。だがそれだけであれば、多くの人々は政治に関心を持とうとせず、人生のそれ以外の面によろこびを見出そうとするだろう。「お上に逆らいさえしなければよい」のである。かつての南米諸国のように国家が独裁者に支配されていても、人々が日常生活のなかで「国家的共通善」への献身に動員される傾向が少ない場合は、独裁国家であっても全体主義社会ではない。
 つまり、全体主義は単なる外形的な服従にとどまらず、人間存在の根底からの、全人的なコミットを人々に無理強いする。(p.242-243)


なかなか興味深い区別である。ただ、学問的に見たとき、この「全体の圧倒的優位」をどのように客観的に測定するか、という問題は残るように思う。



 ナチス・ドイツや天皇教日本帝国や全体主義国家群は、一見中間集団を破壊し、巨大な国家と「砂粒」のような個人との二極構造のもとで強大な支配を行ったかのようにイメージされがちであるが、実際には違う。
 これらの全体主義社会では、中間集団が個人に対して過度な自治と参加を要求する。そして個人に対して徹底的な締めつけを行う。(p.244-245)


興味深い指摘である。

ネットワーク論の立場から見ても、個人に対して強く干渉する為には中間団体的なものが要請されるように思われる。

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