アヴェスターにはこう書いている?
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内藤朝雄 『いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか』(その1)

 いじめ論がこのような矛盾におちいってしまうのは、素朴なことばのフィーリング(素朴な自然言語的了解)に依存しすぎており、何をもって「濃密」-「希薄」、「幼児的」-「大人的」、「秩序」-「無秩序」というのか、といった概念の検討が不十分なまま理論(素人理論)をつくりあげようとするからである。
 結論を先に言えば、こういう思考の混乱は、秩序を単数と考えることから生じる。秩序を、Aタイプの秩序、Bタイプの秩序、Cタイプの秩序というふうに複数と考えれば、右記の難問は解決する。(p.18-19)


「素朴な自然言語的了解」によって「理論ならぬ理論」(素人理論)が作り出され、往々にして誤った理解が共有されるということは非常によくある。政治や経済など、社会科学が研究対象とするような領域においては、特にそうである。いじめに関する言説もその一つであろう。

後段の秩序の複数性についての指摘は、なかなか興味深い。「秩序がある状態」と言うと漠然と単数の秩序を想起してしまうが、現実には複数の秩序が同時に併在していると考えるわけだ。もっとも、秩序なるものも「事実fact」として言語によって作られている側面もあり、複数の秩序の組合せというもの自体、さらに複数のやり方で捉えうるという点にも留意しておきたい。



 ノリの秩序によれば、ひとりひとりの人間存在は、その場その場の「みんなの気持ち」、あるいはノリの側から個別的に位置づけられて在るものであって、人間が「人間である」というだけで普遍的に与えられるものではない。人間は諸関係の総体である。いじめで盛り上がる中学生たちは哲学的な思考などしないが、近代実体主義を超えた徹底的な関係主義と社会構成主義を「いま・ここ」で生きている。(p.43-44)


本書ではこうした指摘が繰りかえし為されているが、この点こそ、私が本書から見て取った中で最も興味を引かれた点の一つである。こうした関係主義、社会構成主義は概ね70年代以降に勢いを増し始め、80年代以降の「ポストモダン」と呼ばれる潮流の中でもてはやされてきた考え方とかなり重なると思われるからである。

それに対する批判が90年代後半から00年代にかけて次第に高まっているということを私は感じているが、こうした「いじめ」というテーマの本でもそれが見られることに少し驚くと同時に、こうしたアクチュアルな話題を本気で扱う人たちの間でこそ、こうした関係主義や社会構成主義を批判する動きは強いということを改めて思い知らされた。後者の点は、サイエンス・ウォーズで社会構成主義的な科学論者に対して現場の科学者達がそれを批判した構図と似たところがある。

ただ、違いは、本書ではその社会的に構成された個別的な「私」がいじめの現場に現に存在していると捉えられ、それがネガティブなものとして描き出されている点である。サイエンス・ウォーズでは社会構成主義的に描き出された科学研究のあり方自体、現場の科学の営みとは大きく異なり、現実的でないとして批判されることが多かったように記憶しているため、この点には相違点があるように思われる。



何をいったやっていたならば叱られずにすむのか、その目標というものがわからない。(p.129)

実際、過酷な集団心理-利害闘争に投げ込まれた人々は、「なりきる」以外に生きるすべがない(このことは、学校の集団生活にかぎったことではない。たとえば、後出の【事例19・中国の文化大革命】〔249ページ〕にみられる「なりきる」姿は、女子中学生が学校の「友だち」グループに「すなお」であるさまと、よく似ている)。(p.12-130、本文でブロック体の箇所は下線を付した)


前者の文は、支配が「客観的」になされない、専制的な社会秩序の中で極めて助長されやすい傾向である。権力が恣意的に行使されるところでは、権力を操作する術を持たない者は、それをやり過ごすために多くの労力を要し、権力に狙われないような行動様式を身に付ける。本書が示す「いじめ」の構造はまさに、いじめだけに適用されるのではなく、もっとマクロな社会のあり方と通じているというのは、筆者も言っているが、私にもそのように思われた。



 たとえば、法執行機関(警察)が目の前に迫ってきたり、あるいは「警察を呼ぶ」「告訴する」「あなたの行為は、刑法○○条に触れている」といった法の言葉が発せられたりするだけで、それは、強力な場の情報(「解除キー」)になる。そして、人々の現実感覚は、聖なる集団生活のモードから、市民社会のモードへと、瞬時に切り替わる。「キレ」たり大騒ぎしたりしながら、集団心理-利害闘争にふけることが「生きることのすべて」となる教育の共同体では、何を言われようと残酷ないじめを繰り返すモンスターたちが、市民社会の論理に貫かれた「普通の場所」では、おとなしい小市民に変わる。
 ちょうど催眠術にかかった人が、ある「解除キー」となる言葉によって一気に醒めるように、法には、人を市民社会に連れ戻す「解除キー」としての働きがあるのだ。(p.201)


私の場合、仕事の場で使えると思って興味が引かれた箇所であるが、まぁ、それは措いておく。

このように、集団的なノリが支配する場から、より普遍的な市民社会の論理が働く場へと現実感覚を移行させる「解除キー」として法が機能しうるためには、その法自体が「客観的」に運用されていなければならない。それがなければ「市民社会」は成立し得ない。この点だけは付け加えるべきである。

文化大革命の時代の中国で法に訴えたところで市民社会の論理が現実感覚化はしなかっただろう。現代の中国では当時よりはマシだが、今の日本と比べると法の執行は恣意的な面が強い。更に言えば、昨今の日本は次第に法が恣意的に運用されたり作られたりする傾向が強まっているように私には感じられる。小選挙区制によって人々の支持の程度と政治の場の勢力配置に大きなズレが生じるため、支配者のやりたいことを実現するためには世論とのズレが生じやすく、それでいて、優位に立った政党には、彼らのやりたいことを暴力的なまでの仕方でありながら合法的に実現するだけの巨大な権力が与えられてしまうからである。

なお、2005年に誕生した「小泉チルドレン」や今回の総選挙で民主党が圧勝することが伝えられているが、民主党の新人議員が誕生することは、現行の小選挙区制ではほとんど避けられない。しかし、そうした新人議員ばかりが議席を占めながら、一つの政党だけがやたらと多い議席を占める場合、数の力(強大な権力)は、優位な党のごく少数の人間の手に委ねられてしまうことを意味する。国会議員の影響力は一年生議員と既に各方面にネットワークを持っているベテラン議員では同じではないからである。

(もう少し具体的に説明しよう。衆議院480議席のうち、民主党が300議席をとるとしても、新人議員やそれに近い議員が200人近となるが、彼らには党を運営するだけの権力は与えられない。残りの100人の議員のうち、既にできている議員間のネットワークの上位に立つ恐らく20人前後が300議席の動向を決める決定権を持ち、それが480議席の衆議院の意思を決定するに当たって極めて大きな権力を持つことになる。もちろん、それ以外の要因も絡むにせよ、その場合でも、「有力議員」には勝ち馬に乗る形で権力が上乗せされる傾向がある。郵政選挙以降、自民党が暴走したのは「自民党だから」ではなく、現行の選挙制度の帰結なのである。これを変えない限り、同じことは今後も繰り返されるだろう。


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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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【2012/10/08 12:32】 | # [ 編集]


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