アヴェスターにはこう書いている?
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ジョナサン・クレーリー 『観察者の系譜』

歴史そのもののなかには連続も不連続もなく、そういったものは歴史記述のなかにのみ存在するということは、ここでわざわざ指摘するまでもあるまい。だから、かなり長い期間を記述の対象に据えるこの研究は、「本当の歴史」を目的としたものでもなければ、「実際に起こったこと」を記録のなかに蘇らせることを目指すものでもない。ここで賭けられている賭金は全くちがったものだ。どのように歴史を区分するか、あるいはどこに切断を置いたり、切断の存在を否認したりするかは、まったくもって、現在自体の構成の仕方を決定する政治的な選択なのである。(p.23-24)


歴史の中で生起する出来事の連鎖には連続や不連続といった区分は意味がないが、それを外側から観察する歴史叙述においては、ある出来事と他の出来事などの間の連続性や不連続性などが取り沙汰され、それらが政治的なものであるという点には同意する。

ただ、本書が提示する「観察者」というものも、一種の理念型であって、ここで宣言されているようにフィクションなのだが、著者は別のところでは19世紀前半に視覚が大きな変容を被ったとして、それが事実であるかのように語っており、走したところに本書の矛盾ないし不徹底さがあるように思われる。



 芸術史家たちは、全く当然のことだが、芸術作品に関心を示す傾向がある。だから彼らの大部分は、絵画や複製版画の形式的構造を決定するうえでカメラ・オブスキュラが演じていた役割の可能性という観点から、この器械を考察してきた。カメラ・オブスキュラについての多くの論考(とくに18世紀を扱ったもの)は、模写のために芸術家がそれを用いるという点から、あるいは絵画制作の際の補助道具としてのみ、この器具を考察する傾向がある。そこにはしばしば、芸術家は自分たちが本当に望んでいたもの――そしてそれは写真機という形で、すぐに登場することになるのだが――の不完全な代用物で何とか間に合わせていたのだ、という暗黙の前提が認められる。カメラ・オブスキュラのそういった側面を強調すれば、一連の20世紀的な前提、ことに生産主義的な論理を、絵を生み出すことが第一義的な機能ではなかったこの装置に押しつけることになる。カメラ・オブスキュラでもって模写を行うこと――つまりこの装置が生み出す映像(イメージ)をなぞることによって、映像を固定し永続化すること――は、数ある使用法のなかの一つにすぎず、18世紀の中葉になっても、多くの重要な論考のなかで、このような使い方には強調点が置かれてはいなかった。(p.60)


カメラ・オブスキュラが使われていた当時の使用法やこの器具に対する観念と、後代の歴史家たちが、彼らの観点から見て叙述する内容の間の差異。



「知覚の純粋客観性」を手に入れるために「注意力を高める」べく、ショーペンハウアーが身体をめぐる知を応用するとき、それは、創生期にあった19世紀の生理学的心理学と本質的には同一の可能性の条件をもつプロジェクトとなっているのである。この新しい領域(ディシプリン)の重要な部分として、注意力、反応時間、刺激の閾値、そして疲労といった観点からなされる眼の計量的研究があった。こういった研究は、人間主体の生産的労働への適応化に関する知(人間の労働を合理化し、効率的にするrために、最適量の注意力は不可欠の条件だった)の必要性と、明らかに結びついていた。反復行為を遂行するうえで眼と手を素早く運動させることに対する経済的要求は、人間の視覚能力や感覚能力に対する正確な知を必要としたのである。新しい産業生産モデルの文脈では、労働者の「不注意」の問題は、経済的、規律的に望ましくない帰結を伴う、深刻な大問題だった。(p.130-131)


こうした社会的条件に関する考察を、本書ではもっとたくさん行ってほしかったものである。こうした叙述の少なさが私から見た本書への不満の一つになっている。



だが、物体のあいだのなにもない空間に対してターナーが与えた実在性、そして諸形態の統一性と自己同一性とに対する彼の挑戦、これらは物理学の新生領域と軌を一にしていたのだ――すなわち、科学における場(フィールド)理論と熱力学である。(p.205)


こうした平行性は興味深いものであり、私がかつて非常に強く関心を持っていた問題である。意味空間の理論によってこれは説明される。すなわち、専門的な理論は、その時代の一般的に流布した常識となっている言説によって張られる意味空間の上に構築される上位の意味空間の中で展開されるのであり、それぞれの専門が異なっていても母体となる日常言語の意味空間は共有しているために、理論言語の意味空間も相同な形式をとるのである。


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