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包慕萍 『モンゴルにおける都市建築史研究 遊牧と定住の重層都市フフホト』(その3)

 異口同音に「迷路の町」と評される帰化城の街路は、いったいどのように形成されたのだろうか。1998年の地図と複数の古地図を重ね合わせ、同時に歴史文献によって街路の造られた期間を確認する作業を行った結果、1850年代までに形成された街区を確定することができた。すると、街路が三つの種類に分けられていたことがわかった。一つ目は、「街」と名づけられた道幅約六メートルの大きな街路である。おおむね商店街はこの道に形成された。二つ目は、「巷」と名づけられた、街区を大まかに区画する「街」とほぼ垂直方向に街区内部に通じる道路である。「巷」(Hang)は細い道を表す山西方言である。帰化城では、「巷」の道幅は約三メートルである。大きな街区はこの「巷」によってさらにいくつかに区分された。三つ目は、「巷」よりさらに狭いことを示して「小巷」「一人巷」と名づけられた、「巷」からさらに裏へと通じる路地である。道幅はさまざまだが、一般的には二メートル以下である。住宅地の通路や店舗の裏道をなすこうした路地は、住宅の入口や店の裏口まで通じており、すべて袋小路になっている。すなわち、公共的な交通路である商店街からその裏側にある住宅地に通じる道路によって街坊が形成され、街坊内の通路「巷」からさらに細かく区分された区画に袋小路が分岐しているのである。道路は幅によって三段階に分けられ、また街区の外側から内側に進むに従って公共性もしだいに希薄となり、私的な性格が色濃くなってくる。このような街路組織は帰化城だけにとどまらず、モンゴルのほとんどすべての売買城では、こういった「街」と「巷」で街路が組織されたのである。(p.178)


中東の都市と非常に似ていると思われるのが印象的。また、このあたりは陣内秀信の影響が感じられる分析手法である。



 中国の城壁都市については多くの研究がなされているが、北京を始め、その大多数が八旗城である。しかし従来の研究においては、住宅地の短冊型の敷地構成、住宅の平面配置、王府が都市内に均等に分布しているといった特徴が、いずれも八旗城の組織に基づいていて形成されたものであることはあまり認識されていなかった。本節では、清朝の八旗制度が城壁都市の構造に及ぼした影響を明確にすることができた。清朝は八旗制度を都市に適用することによって、明朝の城壁都市の構造を基本から変容させ、新たな都市計画に基づく都市構造を築き上げたといえよう。(p.210-211)


社会組織と都市の構造の関係の一例として興味深い。



 元来、綏遠城が建設されたのは清朝が西モンゴルを制圧するための軍事拠点としてであったが、1757年に西モンゴルが征服され、1759年に新疆が創設されて外敵がいなくなると、軍事上の必要性がなくなってしまった。それ以前は、八旗軍の兵士は五年ごとに全国の駐屯地に転勤し、家族を城に同居させることは許されていなかったが、1761年に家族の同居が許されるようになった。つまり、西モンゴルが征服されたことを契機に、綏遠城は軍事的な機能を弱め、「行政的」な都市に変貌しはじめたと考えられる。その結果、1760年代から綏遠城に商業地が増設されるようになったと推論できる。そして、綏遠城に商業地が設置された時期に該当する1762年には、帰化城で都市税関が整備されている。すなわち、1760年代に双方の都市で大きな変容が起こったのである。(p.213)


政治的な動向が都市に与えるインパクト。



 この戦後のフフホト都市計画の基本案であった1957年の草案を、日本統治期の1938年に立てられた戦前の都市計画案と比較してみるとどういうことになるだろうか。結論を述べるならば、1957年の計画は明らかに1938年の都市計画案をベースに立案されていることがわかる。特に、商業区、娯楽区、工業区の配置、幹線道路の位置、緑地帯の設置は完全に一致している。一方、中央ロータリー地区に計画されていた環状道路は放棄され、直交した街路だけが継承されている。また、日本統治期に建てられた日本総領事館は、1950年代以降フフホト市政府として用いられているものの、1940年代の計画ではロータリーが設けられた中央大広場だった都市計画上の中心は、駅の北側の交差点に築かれた方形の新華広場に移された。綏遠城の西城門の城壁沿いに緑地帯を設ける計画は継承されなかったが、西城門前の三角地帯だけは緑地として残され、城門から見て緑地を挟んだ向かい側には内モンゴル博物館が立てられて、戦後のフフホトの都市景観を代表する場所とされている。(p.262)


フフホトの都市計画に日本統治時代の影響が残っている。



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