アヴェスターにはこう書いている?
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包慕萍 『モンゴルにおける都市建築史研究 遊牧と定住の重層都市フフホト』(その2)

 イヘ・ジョーが建設されてから五年後の1585年にアルタン・ハーンが逝去した際、長子ドゥーレン・センゲ・ホン・タイジはダライ・ラマを迎えるためにイヘ・ジョーの東方100歩ほどの地点に新寺を建築した。これが、現在のシレト・ジョー(席力図召)の古本堂と考えられている。さらに1621年にはシレト・ジョーの東方100歩余りの地点にバガ・ジョー(小召)が建築された。1636年に南モンゴルが清朝の支配下に入って以降、1755年に清朝がモンゴル全体を支配下に収めるまで、南モンゴルは清朝によるハルハ・モンゴル、西モンゴルへの侵攻の前線基地となった。そのため、清朝はチベット仏教を扶植することによって南モンゴルの懐柔を図り、モンゴルの仏教寺院に対して理藩院から僧侶たちの仕俸や経典、職人などが提供された。こうして、兵役、徭役の義務がなく、納税も免除される僧侶が、モンゴル社会における階層を形成していった。その上、一家族に三人の男子がいたならば、そのうち一人は必ずラマ僧にするという法まで制定された。このような政策の後押しもあって、モンゴルにおけるチベット仏教寺院の数は一気に増加した。フフホトでは七つの大寺院、八つの小寺院、24の下級寺院が建設され、1727年には最後の大規模建築として五塔寺が築かれた。すなわち、1580年代から1630年代にかけてはフフホト、ひいては内モンゴルにおいてチベット仏教寺院が建設される時期であり、その後1727年代までは清朝治下でチベット仏教が定着した時期ということができる。1727年以後、フフホトでは、いくつかのチベット仏教寺院が新設されたが、いずれも小寺院にすぎず、既存の寺院の修復、増築にもっぱら力が注がれた。
 これらのチベット仏教寺院により、フフホトはハーンの都市から宗教都市へと変身していった。(p.69)


フフホトにおけるチベット仏教寺院の建設に関する歴史の概要。イヘ・ジョー(大召)、シレト・ジョー(席力図召)、バガ・ジョー(小召)および五塔寺のいずれもが非常に密集したエリアに建設されていることも興味深いが、時期的にも前三者はかなり近い時期に建設されており、それが清朝のモンゴルへの拡張と密接にかかわっていたというのは興味深い。



 1720年代に起こったもう一つの歴史的事件は、1727年に清朝とロシアがキャフタ通商条約を締結したことである。これによって、モンゴルは中国とロシア、中央アジアとの貿易の中継地となった。モンゴルで中継貿易に携わる商人たちは主に山西出身の漢人か回民であり、18世紀から19世紀にかけて彼らが形成した都市はモンゴルにおいて「売買城」と呼ばれた。いわば北アジアで形成されたチャイナ・タウンといえよう。(p.89)


山西商人が有力な商人となったことの理由がようやく分かった気がする。私にとってあの内陸にある山西商人がどうして有力でありえたのか、ということは長らく謎だった。陸路での北方・西方との交易ルートが形成されたことが、あの地域の経済が活性化した重要な要因ということか。



 漢人商人の四合院式の住居の場合、対称的な平面配置を示すことになる。二つ以上の四合院が続く場合、出身地である山西のように中軸線に沿って縦列に並ぶのではなく、売買城では横に並ぶのが普通である。山西の住宅に見られるような中軸線に沿って北側に延びる構成は、二世代以上からなる家庭における儒教的な家庭秩序を反映したものである。しかし、売買城を訪れた当初、商人の大部分はまだ独身で、商売が成功してから、初めて出身地から嫁を娶って家庭を持つ場合が多く、二世代が同居することはあまりなかったのである。(p.106)


フフホトの売買城における四合院建築は、原型は山西から入ってきたものであるが、全く同じ形にはならなかった。平遙で私が見た四合院はことごとく中軸線に沿って連なりを魅せる構成だったのが印象的で、これでもかと同じパターンが続くのに少し飽きてしまったのを覚えている。現在のフフホトで四合院建築を見ることができるかどうかわからないが、近々訪問予定なのでチェックしてみたいところである。



儒教より神仙を信仰する道教寺院の方が多いというのは、アジア各地における華人商業移民社会に共通する宗教的な特徴である。(p.148-149)


儒教は官僚などの政治的支配階層のものであり、民間の社会では道教の方が盛んだったということのように思われる。なお、儒教と道教の寺院の関係は、中国国内にも当てはまるのではなかろうか。中国を訪問したり歴史学などの本を読む際などに、この点に留意しておきたいと思う。



 都市におけるモンゴル仏教寺院の門前に注目すると、さらに共通する空間的特徴が見出される。それは、イヘ・ジョー、シレト・ジョー、バガ・ジョー、ネマチ・ジョーの門前に、いずれも商店街に囲まれたほぼ三角形をした広場があったことである(図78)。1690年代の記録によると、寺院前の空地は現在のものよりも広かったという。その後、寺院前の空地を侵食するように、商店街かが徐々に寺院に向かって拡張されていき、現在では三角形の広場だけが残されているのであるが、それ以上は商店街が拡張されなかったのはなぜだろうか。それは、寺院の前の屋外空間で年中行事や祭が行われたからである。1696年に康熙帝がフフホトに11日間滞在した際には、バガ・ジョーの前でモンゴル相撲や射矢などが披露された。その様子を描いた絵図はないが、バガ・ジョー門前の牌楼軒下の木鼻にはモンゴル相撲の力士像が据えつけられている(図79)。この特徴的な装飾は、この広場で相撲大会が催された名残であろう。また、20世紀初めのイヘ・フレーの絵図には、モンゴル仏教寺院の前で行われた相撲祭が詳細に描かれている(口絵の図F)。モンゴル仏教寺院の行事以外に漢人の祭日にも、門前の広場に仮設舞台を設けて芝居が上演されることがあった。このようにモンゴル仏教寺院の門前広場は娯楽空間としても利用されていたことから、寺院が商店街や居住街区の中心だというにとどまらず、社会生活全体においても中心的な存在であったことが窺える。(p.174)


寺院の前に広場があり、祝祭などが行われるということは、比較的広範に見られる現象であるように思われる。

ヴェネツィアのサン・マルコ広場やヴァティカンのサン・ピエトロ寺院の前のサン・ピエトロ広場、あるいは、イスファハーンの「王のモスク(イマームのモスク)」の前にあるイマーム広場、サマルカンドのレギスタン広場などが私の場合には即座に想起される。また、モスクワの赤の広場も隣にはワシリー聖堂があるし、パリのノートルダム寺院の前も広場になっているし、ハイデルベルクの聖霊教会の前にも(これは市庁舎前でもあるが)広場がある。

くり返しになるが、以上のように、これらがどのくらい祝祭に用いられているか、どれくらい庶民に開かれていたかは別としても、大規模な宗教建築の前に広場があり、そこが祝祭などに使われるということ自体は比較的普遍的に見られる現象であるように思われるのである。

まぁ、カイロのような超高密都市や日本の京都などは、これとは異なっているとは言えそうだが。

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