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包慕萍 『モンゴルにおける都市建築史研究 遊牧と定住の重層都市フフホト』(その1)

 フフホトを主要な研究対象にしたのは、以下のような理由からである。フフホトは現在の中国内モンゴル自治区の省都であるが、430年前に形成された時点からモンゴルにおける中心的な都市であった。モンゴル人の政治、経済の中心地である以外に、16世紀末以来モンゴルにおけるチベット仏教の中心地であり続けてきたし、18世紀以降は北アジアにおける遠隔地中継貿易の中心地となり、同時に清朝のモンゴル支配の政治拠点ともなった。その上、20世紀に入ると、キリスト教布教や商業活動を通して、西洋諸国からも影響を受けることになった。その後は日本の植民地となり、独立と統合の狭間で揺れ動いた末に、現在の内モンゴル自治区の省都となった。まさにフフホトは、モンゴルにおける政治権力の興亡の一大拠点であり、モンゴル史の歴史的舞台だったのである。(p.i)


フフホトという都市の歴史的位置付け。モンゴルにおけるチベット仏教の中心地であることや日本の植民地であったことなどは日本ではあまり知られていないかもしれない。



 このように、明朝と右翼モンゴルが朝貢貿易の関係を結んだことにより、長城の機能は、軍事的な防衛施設から貿易の税関へと変わっていった。双方向の貿易が活発化するにつれ、16世紀初めには長城内外の軍事拠点であった「城」はいずれも経済貿易都市へと変化していった。17世紀に張家口やフフホトなどが南の中国と北のロシア、西の中央アジアを結ぶ貿易の中継地となったのは、こうした基盤が築かれていたからであろう。(p.51)


「万里の長城」というと、北方の遊牧民から中国の領土を防衛するために築かれたというイメージがあり、それが有給の歴史の中で続いてきたと考えがちであるが、こうした指摘に出会うと、社会というものは常に変動しながら推移していくものである、ということを改めて想起させられる。

また、本書によると長城沿いに経済的な貿易都市が形成されたと言い、フフホトもそのひとつだとされるが、これは北方遊牧民との関係で語られる(漢民族の居住地域は北方遊牧民の脅威にさらされていたとする)ステレオタイプ的な中国のイメージとは若干異なる歴史の実像であるように思われる。

このあたりの歴史の流れ、地理的な関係についての理解が深まったことは本書から得た大きな収穫のひとつであった。



 都市を移動させる際は、事前に移動先をあらかじめ調査しておく。具体的には、部族の長、時にはシャーマン、ラマ僧などが、その季節において遊牧生活の条件を満足させる立地を選定する。ホトの営地は変わるが、その空間構成は一定である。以下、その空間構成について考察する。
 中心にはオルドかチベット仏教寺院が位置する。その南は広場になっていて、さらに南に空地が広がる。中心地から両側に、ゲルの街区が放射状に配置される(図12)。また、東西に列をなして並行にゲルの街区が配置されることもある(図13)。都市全体の中では北、西が上位の方角で、中心に近いほど上位となる。(p.63)


定住化が進む以前のモンゴルの都市ではこうした配置が色濃く残っていたらしい。現代でもチベット仏教寺院の南側には広場の名残が残っているなど、多少の残渣は見て取ることができそうであり、また、歴史的な遺構を見たりするときにはこの配置について知っていることは、有益な知識となりそうである。

移動先を事前に調査するという用意周到さは、モンゴルの軍隊が戦闘に先立ち敵方について綿密に調査していたとする説とも共通しており興味深い。やはり遊牧生活というものはかなりシステマティックに営まれていたと見るべきであろう。



 以上、ゲルの集合によって構成される遊牧都市の空間について述べてきたが、それらの特徴は次のようにまとめることができる。第一は、いうまでもなく、移動ができるということである。イヘ・フレーに例を取ると、1719年から1779年までの60年間に、19回も移動したという。第二は、都市空間のもっとも中心には政治的、宗教的な空間があり、その周囲にいくつかの部落や集団が上下の秩序に従って配置されていることである。それぞれの集団に属している住民の住居は、族長を中心に配置されている。一方、ラマ僧の住宅は所属寺院の周囲に位置しなければならない。ちなみに、チベット仏教寺院は単なる宗教施設ではなく、医療的、福祉的な都市機能をも担っている。第三は、居住区はハーンおよび活仏、貴族、平民という三つの階級ごとに、空間的な序列に基づいて配置されていることである。第四は、商業空間、娯楽空間は仮設建築によって広場に設けられることである。(p.64-65)


遊牧的な都市の構成についてのまとめの部分。

寺院が医療や福祉的な機能をもっていたというのは、中東やヨーロッパの宗教施設にも見られることであり、私の持論である「宗教とは政治現象である」というテーゼから言えば、宗教=政治の再配分政策的な側面を表現したものであるといえる。

空間的な序列があるというのは、ある意味、民主的な社会とは異なる部分ではあるものの、遊牧社会が強い秩序を持っていることを反映しているように思われる。




 モンゴル帝国および元朝の時代、チベット仏教のサキャ派が帝国の国教に定められたが、信者はモンゴル貴族に限られていた。1368年に元の順帝ドゴン・テムル(torun temur)が首都の大都を放棄して、北方のモンゴル高原に退いて以降、チベット仏教が衰退の一途をたどる一方で、モンゴルでは従来のシャーマニズムが信仰され続けていた。ところが、16世紀末にチベット仏教が再び導入され、モンゴルに根づき始めると、これまでには見られなかったほどの勢いでモンゴル人の間に信者を獲得し、現在に至るまでモンゴル人の主たる信仰として存続してきたのである。
 チベットとモンゴルとは、チベット仏教を介して密接に関係し合うようになった。モンゴルおよびそこに住む人々はチベットから大きな影響を被った。都市や建築についても例外ではなかった。チベット仏教の導入によって、ハーンのオルドを中心に形成された遊牧都市は、チベット仏教寺院を中心としたものへと変容し、寺院が都市形成の中核的要素になっていった。また、チベットの建築技術や意匠もモンゴルへと伝来し、17世紀から18世紀の前半にかけて、モンゴルの建築文化の重要な一部として定着した。その影響はモンゴルだけにとどまらず、モンゴルを経由して満州へも伝わっていった。1629年にはダライ・ラマの弟子が、満州の盛京(瀋陽)において当時の「金国」のハーン皇太極に説法を行ない、1636年には盛京にチベット仏教の寺院である法隆寺(俗称黄寺)が建てられた。こうしてチベット仏教は清朝の国教にまでなったのである。(p.65-66)


本書を読むまでモンゴルとチベットがこれほど深くかかわっていたと認識することはなかった。

モンゴルやチベットでチベット仏教が盛んになったことは、ある意味ではファーティマ朝やサファヴィー朝がシーア派を奉じたことを想起させるものがある。すなわち、イデオロギー的に外部との差異を構成しているように思われる。


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