アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

立岩真也、尾藤廣喜、岡本厚 『生存権 いまを生きるあなたに』(その1)
立岩真也

これからの、保険なり社会保障なりっていうのが、自分の将来のためであるからこの話に乗ってちょうだいっていうところが、唯一そのシステムを正当化するロジックであったがゆえに、逆にそれが、だったら政府じゃなくてもいいみたいな話につながってきた部分があったんじゃないかとは一つ思うんですよね。(p.18)


日本の社会保障を削減するために、措置から保険への移行さえなされる中、「保険」に偏っためにこのロジックが一般化してしまい、保険は措置よりも市場化しやすい位置にあったことと相俟って、容易に新自由主義のロジック、すなわち政府の介入を排除するロジックによって正当性を奪われてしまったということか。



――そのときに、そういうことをすると高所得者が日本から逃げていくっていう話が出てくるわけですが。

立岩◎ それはやっぱり二つあってね、資本とか工場とかそういったものは海外移転が比較的容易ですから逃げていくというか移っていくっていう可能性は高い。それに比べての話ですけれども、人間っていうのは、それなりの、生まれた土地に対するしがらみであるとか、住み易さとか、そういうことがありますから、中にはそういう人もいるでしょうけど、そうたくさん、人そのものが流出していくことはないと思う。高額納税者が逃げていってしまう、というのは、累進税率をまあこのへんにしときましょうやっていうときの正当化のレトリックみたいな部分があって、かなりなんというかな、眉に唾して受けとめたほうがいいだろうというのが一つです。
 ただもう一つとして、資本の流出の問題であるとか、うんぬんっていうこともひっくるめて考えたときには、確かに再分配率の高いところから資金が逃げていき、あるいは端的に言って貧乏人が入ってくるっていう可能性は、それはやっぱり否定はできないんですよ。そうすると、世界中で分配率というのを、だいたい均しておけば、国による間の高低っていうのがなくなれば、それが原因での流出流入っていうのが減るはずですよね。
 ロジカルにはその解しかないはずです。それはそうだと言うべきだと私は思っているので、言ってはみています。ただそれは、どう考えたって難しいことであることは確かですよね。世界中で、協調してっていうのは厄介なことではありますから、そう簡単なことではないけれども、ただ向かうべき方向としては、そっちのほうに向かうように仕組んでいく。そっちの方向むいてやろうや、っていうことは可能なんですね。(p.21-22)


全く同意見である。

前段の部分の資本や工場の移転は行われるが、人の移転はそれと同様には行われないというのは、住居や言語の問題を考えただけでも容易に理解できる。また、80年代の多国籍企業の研究などでも、資本ですらその企業の出身国に集約される傾向が見られており、いかにその後のグローバル化が進展したにしても、単に税が安いなどの理由だけで他国に全面的に移ることは考えにくい。

資本家(投資家)も人間であり、言語や制度への精通度や影響力の行使のしやすさは、自らの出身国に対しての方が強い(人的ネットワークの数とその強さなどに規定される部分――情報の流通量と質の違いや個人的なコネクションによる影響力行使の程度の違いなど――があるため)と想定するのが妥当であり、そうであるがゆえに、パワーのある人は他の有利な土地に逃げるよりも自分の居るところを最適の土地に変えようとする傾向があるように思われる。

実際、90年代以降の経団連がどういう政策要求をしてきたかを想起すればわかりやすいだろう。彼らにしても、本当に外国の方が税金が安いから資本を移した方がいいと思うのならば、日本政府に圧力をかけるより、とっとと外国に資本を出した方がよかったということになるはずなのである。(まぁ、経団連は資本家というよりは経営者なので、違いはあることは認めるので、この例示は完全な妥当性をもつもであるとまでは主張しないが。)

さて、引用文で述べられた意見のうち、特に重要なのは私見によれば後段である。

資本の逃避や貧困層の流入という問題は確かに生じうるし、それに対する対処方法は国ごとの再分配の率をある程度均すことにあるという。立岩もこれを実現することの困難性は認めてはいるが、それでも目指すべき方向性を指示することには意味があると考えているようであり、私も同意見である。

実際問題としては、これはFTAや、ナショナルな広がりを越えてリージョナルに形成されつつある国際機関において条約を締結しながら均していくしかないのではないかと思う。EUやAUやASEAN諸国などの枠内でまずルールを設定していくのである。リージョンの境界には同様の問題は生じうるが、それが生じ易いエリアとそうでないところがあるはずであり、生じやすいところでは近隣との新たな協定を結んでいけばいい。全世界で統一的な基準を形成することはかなり難しいだろうが、絶対に不可能というレベルではない。

問題は、再分配政策は基本的に国内の経済や社会のあり方に対しての政策であって、それが外交に左右されることが、ある種の弊害をもたらす可能性も否定できないということであり、また、他国と揃えるようなインセンティブはそれほど生じないか、生じてもその温度差は国により異なるであろうから、それをどう調整していくのか、ということである。

立岩の意見には大賛成であるが、以上のやり方は困難を抱えているだけでなく、対症療法的な対策という側面が強い。根本問題は、ここ30年ほどで金融の規制緩和が物凄いペースで行われてきたことにあり、まずは金融資本の暴走を止める規制の方が先であるように私には思われる。



それは、生存権の保障にしてもなんにしても、それを保障するのは、広い意味での財ですよね。財というのは、人がなんらか働くという形で関与して、生産されて出てくるものである、という意味で言えば、生存権を保障するということはすなわち、国民のレベルで言えば、勤労の義務をもつと。全員の生存権を保障するための義務が、労働を提供できる人間にとってはある、っていうことが一般的に言えることだと思います。(p.40)


個別の人が働かなければならない具体的な義務を持つわけではなく、「国民――もう少し正確に言えば『法的に見て日本国籍を保有する諸個人』の総体――として」抽象的なレベルでの義務が存在するということか。

ある程度の重さの知的障害や身体障害を持つ人については当然、勤労の義務はないにしても、それほど重くない病気の人などは結構微妙である。病気の一つや二つは誰でも持っているわけで、生活保護の現場などで就労がうるさく言われるのも、こうした微妙なボーダーラインやそれ以上の健康状態にある人に対してである。(但し、保護受給者の大部分は高齢者と障害者、ある程度以上に重い傷病を患っている人であるため、こうしたボーダーライン以上の人の絶対数はそれほど多くない。)個別的には勤労の義務はないと言い切るならば、こうした人々にうるさく介入して「働かせる」必要はなくなる。

ただ、私の意見としては、やはり個別にも義務はあると考えなければ、全体としての一般的抽象的な「国民のレベルでは勤労の義務がある」という規定だけでは、この義務が存在すると言えるだけの実効性に欠けるように思われる。

その意味では、現場ではこの抽象的な規定をどのように具体化するかを巡って、常に「緊張関係」にあり、その時々の情勢により具体的な水準が決まっていくというしかないのではないか。

スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/547-c024589a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)