アヴェスターにはこう書いている?
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堀敏一 『中国通史 問題史としてみる』

 漢族・漢人の呼称は、民族意識の統一をある程度しめすものといえるかと思います。これにたいして統一的な国土の名称は、なかなか定まらなかったように思います。それは国土というものが、実際上は支配者王朝側の領域であって、それは政治的に伸縮するものであったからでしょう。例えば王朝を超越する「中国」の語の使われ方をみますと、それは本来真ん中の国、いわば“中つくに”を意味する言葉であって、西周時代には周の直轄地を指していました。春秋時代になると、諸夏の同類意識の成立にともなって、諸夏の国々のある中国北部のいわゆる「中原」地方を指すようになりました。したがって中国統一にともなって、その語は中国全体を指すようになりそうなものです。ところが中国の語は、ひきつづいて中原を指す用法が多いのです。それはこの語が依然“中つくに”という原義にそって使われたからでありましょう。こういう用法は清代にまでおこなわれていました。そうすると、中国の語が実際に全中国の呼称として確立するのは、近代になってからではないかと思いますが、この点は今後もうすこし考えてみる必要があります。(p.55)


「中国」の語がさす地理的範囲は歴史的に見ると、基本的には「中原」であって、現在の中国の領域を指すようになり、それが後半に使われるようになったのは100年前後の歴史しかない。



 こういうように漢人の先進的な知識・技術・労働力が、五胡諸政権には重要であったので、五胡諸国を統一した北魏は、建国初期に先進地域に住んでいた漢人の官吏・民衆や諸民族の人口36万、手工業技術者10万余人を都(平城、今の大同)の周囲に強制移住させたといわれます。このように先進地域からきた知識人が政治の顧問になり、また民衆が建設事業の労働力を提供するという構図は、やはりこのころから日本に移住してきた渡来人の役割と同じです。日本の渡来人も大陸の人口移動の余波であったわけです。(p.149)


このあたりの人口や技術、労働力の移動に関しては、以前、「雲崗石窟についての覚書」を書いたときにも触れたことがある。

このことは、日本の渡来人にも当てはまるわけだ。



 唐帝国が滅びると同時に、北アジア(内陸アジア世界の東方地域)にはキタイ(契丹)族によって建てられた遼国が生まれます(916年)。この遼は、中国史上の征服王朝とういうよりも前に、北アジア自体の歴史においても画期的な国家だったといえます。
 というのは、それ以前には匈奴からウイグルにいたるまで、いずれも部族連合的な国家であって、その君主権はそれほど絶対的な力をもっていたわけではありません。例えば突厥は興安嶺からイラン国境にいたる大領土を形成しましたが、その国家全体を統合する大可汗の下に、東面可汗・西面可汗がおり、さらに小可汗が各方面に割拠していて、しばしば大可汗位の継承をめぐって争っていました。だから隋の介入をうけると、簡単に国家が分裂し、大可汗の家が交替することになりました。それにくらべると、キタイ族も部族連合から出発しましたが、しだいに君主権を強化して、中国式の年号を建て、独自の文字をつくり、遼という中国式の国号をとるまでになりました。それはかれらの君主権が、中央集権的な中国の皇帝権力に比肩できるという自覚をもつようになったことをしめすものでしょう。
 キタイ族の国家がそれ以前とちがうもう一つの点は、以前の国家がいずれもモンゴル高原の中心部に位置したのにたいし、キタイ族はそれより東方、草原地帯の東端にあり、かれら自身は遊牧民でしたが、農業可能な地域にすぐ接していたことです。遼のつぎの金もやはり東北アジアでおこるのですが、なぜこのように勢力の中心地が東方に移ったかといえば、九世紀の中頃、ウイグルの国家が解体してから、モンゴル高原に強大な勢力がいなくなったからです。(p.258-259)


遼ではどうして中央集権的な権力を形勢・維持できたのか?

また、遼、金、清は草原地帯の東端のあたりから出てきたわけだが、この地政学的な位置付けはどのようになされるべきか?

以上の2点が私として解くべき課題となる。



 唐の三省や宋・元の中書省のように、省というのは元来中央官庁の名称で、現在の日本の中央政庁の名前もそれをついでいるのですが、中国では河北省・山東省・江蘇省などというように、地方行政区画を「省」とよんでいます。それは元朝が行省をおいた名残なのです。(p.274)


少しだけ疑問に思っていたことの理由がわかったのでメモしておく。



 琉球は明の初め山北・山南・中山の三国に分かれて、それぞれ明に入貢していましたが、十五世紀になって中山王に統一されました。中山王ははやくから明の冊封をうけ、中国から船舶・人材を供給されて中国貿易に従事し、明への朝貢回数は断然諸国を引き離していました。明は海禁政策を施いて以来、南海諸国の物産が思うように入手できませんでしたので、琉球は東南アジアと中国との間の有利な地の利を占めて、中継貿易で栄えたのです。
 明末には民間商人の貿易が許されて朝貢貿易は衰えるのですが、琉球の貿易は国営でしたから、明末まで一貫して朝貢を続けました。しかし中国商人が直接東南アジアに進出するようになりますと、琉球の中継貿易の利益は減少いたしました。そこへ日本の薩摩の軍が侵入して、琉球の服属を強いましたが、中国への服属をも認めましたので、琉球は次代の清朝にも朝貢を続けました。これは幕府も公認したのですが、日本は鎖国後もこれによって、琉球を介して中国商品を入手する便をえていました。中国との交易は長崎貿易だけではなかったのです。(p.320)


琉球の占めてきた中継貿易地としての役割には興味深いものがある。

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