アヴェスターにはこう書いている?
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杉山正明 『興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後』(その2)

 遊牧という生活技術・再生産の体系は、しばしば語られがちな「放浪」「さすらい」「根なし草」といった印象とは異なり、厳しいほどにシステマティックでダイナミックなものであった。(p.61)


このあたりについて、もう少し詳しく知りたいものである。ユーラシアの歴史を理解するために、これにかかわる知識は非常に重要であると思われる。



たとえば、ともすれば地中海域は11世紀以降、いわゆる十字軍の連続的な中東襲来によって交通・交流が活発となってきたかのようにいわれてきたが、それはほとんど純粋無垢な精神からの誤解・思い込みである。事実は、地中海は13世紀においてもなお、閉ざされた海に近く、組織的な航海はむずかしかった。(p.100-102)


やや強調しすぎの感もあるが、興味深い指摘ではある。どのようにそして、どの程度、開かれていたかという点について、もう少し理解を深めてみたいところ。



近年、中華人民共和国や台湾を中心に、鄭和の航海についての異常な高評価と莫迦げた空想が横行しているが、鄭和の航海それ自体はモンゴル時代の継続・遺産にすぎず、むしろこれを最後に、中華とアジア東方は組織化された海への展望を急速に失ってゆくことのほうが重大なのである。(p.103)


このように中国が海への進出をしなくなったことが、ヨーロッパ諸国が海を制することができた重要な要因となっていたということであろう。とすれば、北方の遊牧民の勢力は、結果的に、それを側面から支援したとも言えなくもない。



 ロシア人史家たちの愛国主義は、かなりはげしい。そして、おおむねはロシアのことだけを見つめがちであり、あまり他の要素・状況・データを気にしない。率直にいって、やや歴史的センスに欠ける。結果として、彼らの主張は、妥当さと説得力を欠くことが多い。
 とりわけ、根本的な問題として、後世のロシア年代記を鵜呑みにして、それを史料とするからである。最近、きわめて誠意にあふれた栗生沢猛夫の著作が正面からその点をきちんと分析したように、13世紀当時のルーシ年代記はきわめて数少なく、かつはモンゴルの破壊・虐殺もほとんど語らない。ところが、時代がくだるにしたがって、ルーシの被害はどんどん「立派」となり、モンゴルは、神がくだした天魔として巨大成長してゆく。そうすることに意味があり、そのほうが嬉しかったのである。
 ギリシア正教とロシア・ツァーリズムという名の創作であった。そうしたいわくつきのものをもって、根本史料だとしてルーシの不幸、モンゴルの悪逆を語るのが常道となってきたのであった。モンゴルは、ロシアを「遅らせた」張本人とされ、そのおそるべき災厄からロシアを救い出したツァーリ以下の権力者・宗教者は聖なる存在とされた。ロシア民衆にとって、モンゴルは一貫して悪魔であり、権力者にとってはみずからを正当化してくれる麻薬なのであった。
 ここにおいて、客観的な歴史像などは、はるかに遠い。知の虚構は、歴史の虚構であるとともに、政治的パワーや演出への仕掛けともなる。ロシア帝国以来、ソ連をへて現在にいたるまで、ロシアにとってモンゴルは愛国の炎を燃えさせる便利な手立てのひとつなのである。(p.163-164)


「愛国主義」的な歴史観にほぼ普遍的に見られる傾向を的確に指摘している。

例えば、中華人民共和国の現代の歴史も、ルーシに対してモンゴルが占める位置を、日本やヨーロッパ列強に置き換えると、かなり似ていることがわかるだろう。また、日本の右派による「自慰史観」でも、被害を与えたことを軽視し、植民地化した地域の人々の「利益」を強調しようとしたりするが、これはルーシに対してモンゴルが占める位置を「植民地化された現地の政府」に置き換えれば、かなり似ているといえよう。

こうした共通性は、引用文で「ロシアのことだけを見つめがちであり、あまり他の要素・状況・データを気にしない」と喝破されていることに起因する。愛国主義者たちは彼らが愛する「国」のことだけを見つめがちであり、他の要素・状況・データを気にしない、それどころか、都合の悪い要素・状況・データを意図的に隠滅・改変することすら行う。そうすることで、彼らが愛する「国」の権力者を正当化しようとし、そのために「敵」が必要となるため、同様のパターンが繰り返されるのであろう。



 ちなみに、1820年代といえば、かのドーソンの『モンゴル史』が刊行されて評判をとった時期であり、フランスをふくめた西欧列強が、いよいよ東方への本格的な拡大・侵略・植民に乗り出す矢先のことであった。このころのヨーロッパは学者も気宇壮大で、たとえばドイツの歴史学者ドロイゼンが1836年にいいだした「ヘレニズム」なる用語・着想は、哲学者の山内勝利によれば、ただ正統的なギリシア語あるいはそれを尊重することを意味していたが、はるかにそれを超越する歴史概念として巨大化した。だが、本来は、特殊な用例にもとづいた「誤用」に近いものだという。
 この手のことは、しばしばある。いったん、ある考え方やことばが普及・定着すると、当否をこえて、それを前提に話やイメージがつくられ、さらにしばしばより肥大化してゆく。この場合、とくにイル・ハン朝などといういい方は、イスラーム王朝史の脈絡にある王朝のひとつだとする思い込みがそこにある。だが、フレグ・ウルスはイスラーム王朝だったのか。
 すでに述べたように、フレグ・ウルス治下には、ネストリウス派やヤコブ派のキリスト教徒も、かなり広範に存在した。そもそも、当時のイラン地域やさらには中東が、見渡す限り一面の純然たるイスラーム世界であったなどということは、全くない。中東とイスラームとをそのまま重ね合わせるのは、近代主義といっていいが、近年ではそれも否定する考えさえ提出されている。まして、フレグ・ウルス君主をはじめ、この権力体の中核・主力をなす人たちのなかに、はたして真正のムスリムはどれほどいたのか。(p.214-215)


「事実」は言葉によって「作られる」。

さて、フレグ・ウルスはイスラーム王朝だったのかという問いに対して否定的に答えている件は、他の「イスラーム王朝」とされている王朝でも同様のことが言えてしまうように思われる。例えば、カイロのイスラーム化が完了したとされるのは14世紀だが、人々の宗教が何であったかを基準とするならば、それ以前のファーティマ朝やアイユーブ朝は「イスラーム王朝」ではなかったことになる。ただ、このようなhとびとの宗教がどうだったかによって王朝の性格を規定するという発想は、「国民国家」とこうした「王朝」とを同様のものとみなす前提に基づいており、問題があるように思われる。



モンゴルは、大カアンの帝都としてのカラ・コルム、大都、上都、中都(カイシャンのとき)、ジョチ・ウルスのふたつのサライ、そしてフレグ・ウルスのスルターニーヤと、新しい権力の象徴・政治装置を営むのを常とした。セルジュク、オスマンなどでは見られず、モンゴル以来の伝統として建築を好んだティムール、ムガルでも、まったくのさら地に帝都を零から新造することはなかった。(p.218)


更地に帝都を建設するというのは、あまり効率的なやり方とは思えないが、それはどのような発想や論理からなされたのか興味があるところである。

ちなみに、本書を読んで、スルターニーヤのオルジェイトゥ廟には是非行ってみたくなった。できれば数年のうちに久しぶりにイランに行きたいと考えている。


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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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