アヴェスターにはこう書いている?
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岡田英弘 『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』(その2)

 さて、ここで一つ断っておくことがある。いま、「ローマ皇帝」とか「ローマ帝国」とか言ったが、実はローマに皇帝がいたことはなく、従ってローマが帝国であったことは一度もなかったのである。
 いわゆる「ローマ帝国」の正式な名称は、ラテン語では「レース・プーブリカ」であって、「元老院と民衆の共有財産」を意味する。「レース・プーブリカ」は英語の「リパブリック」、フランス語の「レピュブリーク」の語源だが、この言葉が「王国」に対していわゆる「共和国」の意味になるのは、十八世紀末のフランス革命からあとのことである。
 またこの「レース・プーブリカ」に実力で君臨した「アウグストゥス」たちの資格は、正式には「元老院の筆頭議員」でしかない。元老院は中国にはなかったから、「アウグストゥス」を中国式に「皇帝」(光り輝く天の神)と訳すのは、完全な誤訳である。ローマの「プロウィンキア」(「属州」)には、元老院に属するものと、アウグストゥスに属するものとの二種類があった。この両方をひっくるめたものが「レース・プーブリカ」、いわゆるローマ「帝国」であった。
 日本語の「帝国」は、英語の「エンパイア」、フランス語の「アンピール」の訳語である。どちらもラテン語の「インペリウム」のなまりだが、「インペリウム」はラテン語では「命令権」の意味である。ローマ人の官吏は、その地位によってそれぞれ命令の及ぶ範囲がきまっており、これが「インペリウム」であった。つまりローマ「帝国」の中には、官職の数だけの「インペリウム」が存在した。この言葉が実際に「帝国」の意味に使われるようになったのは、十四世紀の初めのことで、しかも当時のドイツの神聖ローマ帝国を指した。
 また英語の「エンペラー」、フランス語の「アンプルール」は、日本語では「皇帝」と訳されるが、いずれもラテン語の「インペラートル」のなまりで、「命令する者」の意味である。しかしこの「インペラートル」は、ローマ時代にはアウグストゥスの称号ではなく、外敵に対して勝利を収めた将軍が部下から受ける非公式の称号で、将軍が「インペラートル」の称号を帯びるのは、ローマに帰って凱旋式を挙げるまでの間だけであった。
 そういうわけで、ローマ「帝国」とローマ「皇帝」はどちらも誤訳で、明治時代の日本人が、中国史の知識をあてはめて西洋史を理解しようとした苦心の産物ではあるが、こうした誤訳は、現在に至るまで、日本人の世界史の理解を誤るという、悪い影響を残している。(p.151-153)


各語の意味の歴史的変遷については、私には詮索するだけの力はないが、この叙述には一面の正しさはあるものの、著者が言葉遊びに耽っているようにも見える。

日本に「インペリウム」の派生語(エンパイア、アンピール)という語が入ってきた時点では、その派生語は「帝国」の意味に使われていたのだから、その時代の欧米の文献を訳すに当たって「帝国」の概念を用いることはあながち誤りとは言えないだろう。

それに「皇帝」は「光り輝く天の神」の意味だというが、過去も現在もそんな意味で「皇帝」の語を使っていたものがどれだけいたのか大いに疑問である。中国の「皇帝」を本当に「光り輝く天の神」だと思っていた臣下はどれだけいたのか?また、周辺の漢字を用いる文化圏で中国の王朝の「皇帝」を「光り輝く天の神」だと思っていた人々(特に政府高官)はどれだけいたのか?その意味では、そうした象徴的な意味が「皇帝」なる概念に含まれているということには一定の留意をすることが必要な場合もありうるにせよ、この概念を転用して王国とも共和国とも異なる比較的広大な領域に対する支配権(命令権)を有する君主を指すものとして利用すること自体はそれほど大きな問題があるとは思えない。

ただ、ローマ「皇帝」とされる「アウグストゥス」をそうした概念で一律に表記することの危険性を指摘している点は正しいと思われる。ただ、元老院と「アウグストゥス」との関係は、ここで著者がふれているような「筆頭議員」という位置づけがずっと続いたかどうかという点では大いに疑問がある。少し検索してみただけでも、ウィキペディアによれば「正当な皇帝を承認する機関へ、そして皇帝の諮問機関へと、段階的にその性格を変えていった」とされているのであって、元老院が諮問機関であって、「アウグストゥス」が専制的支配権を持っている状態であれば、現在の用語で言う「皇帝」を当てはめても特段の支障はないといってよかろう。ただ、その時点で「ローマ」に「皇帝」がいたかどうかは別問題だが。しかし、中東から見るとビザンツ帝国が存続していた地域――アナトリアなども含む――は「ルーム」と呼ばれたのであって、その意味ではやはり「ローマ」に「皇帝がいた」ということになろう。

個人的に興味を持ったのは、「レース・プーブリカ」の派生語の意味が18世紀末以降に「共和国」の意味になったこと(但し、「共和国」の「共和」などは古い中国の文献から持ってきたものであって、現在の「共和国」の「共和」とは意味は異なっていたはずであるが…)と、「インペリウム」の派生語が14世紀初め頃に「帝国」の意味になったことである。政治体制の変動によって概念の意味も変わったわけである。

モンゴルとの関係で言えば、14世紀初頭はモンゴルによる世界の統合が崩れてきた時期であり、世界各地のサブシステムが諸帝国によって緩やかに統合されて行った時期に該当するし、18世紀末のフランス革命以降は帝国とは異なる「国民国家」が本格的に成立していった時期に該当する。



そのジュシェン人の建てた金帝国の制度は、キタイ帝国の制度をほぼそのまま引き継いだものであった。ただし帝国の南部は、宋から奪い取った華北の中国人地帯で、この地域では商業が高度に発達していて、通貨の需要が大きかったので、新たな問題が起こった。それまでの通貨は銅貨であったが、金領に入った華北には銅の鉱山がなかったので、銅貨の鋳造ができず、流通の絶対量が常に不足した。そのため金帝国は、通貨供給の補助手段として、約束手形を大量に発行した。これが信用取引の慣行を促進する結果となり、信用を基礎とする資本主義経済の萌芽を生み出した。このことも、来るべきモンゴル帝国での商業の繁栄の原因となり、ひいては世界の経済の変化を決定することになるのである。(p.207)


世界経済の趨勢を捉える上でこの時期の変化は非常に重要である。



 これとは対照的に、1949年に成立した中華人民共和国は、清帝国の旧領土のすべてを支配している。例外は独立を保った外モンゴル(モンゴル国)だけである。なかでも、1950年に住民の意思を無視して、軍事力を使用して併合したチベットについては、中華人民共和国は、チベットは古来、中国の領土であったとして、領有権の合法性を主張している。その論拠は、元朝と清朝の時代に中国の一部であったからというのであるが、これは事実ではなく、論理としても成り立たない。元朝も清朝も、中国を支配した王朝ではあるが、中国の王朝ではない。その上、両王朝とも、チベットを直接統治したことは一度もなく、まして中国人にチベットを統治させたこともなかった。モンゴルのハーンも清朝の皇帝も、チベット仏教の保護者の立場を守り、チベットの内政に介入せず、チベット人の自治に委せていたのである。もし元朝時代の関係を引き合いに出すならば、現在のモンゴル国こそ、中華人民共和国に対して、中国を領有する権利を主張できる立場にあることになる。(p.231)


元朝も清朝も「中国の王朝」ではない、というのは、「漢民族が支配者であった王朝」ではない、という意味だろうか?筆者の言う「中国」という概念の意味がよくわからない。私の場合、「中国の王朝」というものを「中国」と呼ばれる大まかなエリアに支配的影響力を行使した王朝として理解し、その支配者がどのような「民族」であったかなどとは切り離して考えている――「民族」なる用語で指示される対象が、そもそも各時代にどのようなものだったかということも問題だが、どの地域にいた人々とのネットワークが強いと推定できるかを認識する際の標識としては活用できると考える――のだが、筆者はここで「中国」なる用語をどのように使っているのかよくわからない。まぁ、筆者としては、「中国」のエリアの外側から来た支配者が支配したという意味なのだろうが、実際に支配されていた人々の大部分が外から来たわけではない以上、「中国の王朝ではない」と言ったところで象徴的な意味しか持たないように思われる。

この著者はこのエントリーの最初の引用文のように、やたらと細かな用語の詮索をすることがある一方で、こうしたいい加減な用語法や、いい加減な用語法を使った非論理的なレトリックを随所で使っている点で信用に値しない。

例えば、インドには「歴史」がなかったなどと筆者は言うが、そういう場合に「歴史」を極めて狭い意味に解釈し、それをプロクルステスの寝台として利用し、中国と地中海世界以外に「歴史」がなかった、として「事実」を半ば強引に作り上げ、そこから筆者が望む結論を導き出すという論理にそれが端的に現れている。

チベットについては、中華人民共和国の支配のあり方は大いに問題であり、恐らくは政治的な安定等を考えればチベットは独立した方がよいのだろう。しかし、既に半世紀にわたる支配の中で相当に中華人民共和国側の一部としての側面も強まっているだろうから、そう単純には行かないだろう。その意味では今よりも「高度の自治」を得ることがチベットにとっては有益だろうが、中華人民共和国側からすればそれを認めるのは難しかろう。こうなると新疆ウィグル自治区の問題とも絡んでくるからであり、これらよりは安定した地域でさえ十分に社会が自由化されていないなかで「なんとかやっている」状態なのだから。

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