アヴェスターにはこう書いている?
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愛宕松男、寺田隆信 『モンゴルと大明帝国』

 分裂時代を通じて北朝側に進行した、このような南朝との違和状態は、元朝90年の統一期間では、とても匡正し回復させることは無理であった。ことに元朝そのものが漢人王朝ならぬ征服王朝だとすれば、なおさらのことであろう。こうして元朝には、統一王朝とはいいながら、統一に消化され尽くさない二つの形態、江北と江南が底流として存在しつづけていた。それは、統一と分裂の抱合体とでも称しえられようが、要するに、総体としての不統一の名を免れえないものなのである。
 元朝が歴代中国王朝に伍して、もっとも特異な存在であった理由は実にここにある。したがって、宋明間に位する元朝の役割は、統一王朝という外観によるものではなくて、どうしても払拭しきれない南北朝の延長という実質に即して見きわめられなければならない。(p.61-62)


南と北に違いがあることについてはよく指摘されるが、元代などは制度的にも大きく違っていたようだ。



 政治権力に支えられた旺盛な購買力をもって一大消費地として栄えた畿内(腹裏)と、産業の開発、豊饒な物資を背景とする経済力によって栄えた江南とにはさまれて、こういった貧弱な河南行省が介在していたという不均整は、統一国家としての元朝にとって重大な欠陥をなしていたことは疑いない。河南行省それ自体という局地的立場からしても、このような経済的独立性の弱い官佃戸の多数を擁していたことは、つねに社会的不安定を内在させていたことを意味する。この事情は、元末の動乱にさいして、この河南行省がまっさきにその舞台となるところに遺憾なく露呈されることであろう。(p.194)


元朝というものをやや19世紀的な「国民国家」の観念に近いものとして捉えすぎではないかというきらいはあるものの、モンゴルが統治した「グローバル化」が進展したこの時代にも、経済的な格差が拡大したのだとすれば興味深い。



 「後期倭寇」が活躍した十六世紀の中期は、ちょうど、スペイン、ポルトガルなどのヨーロッパ勢力が、中国沿海にあらわれた時期にあたっている。倭寇が武装をともなう密貿易業者であるとすれば、ヨーロッパ商人の登場によって、国際貿易の気運はいっそうたかまり、その構造もより多彩なものとなったのは疑いない。倭寇の終息と明朝の「海禁」解除以後、東アジア海域は、各国商人が入り乱れて活躍する国際貿易の舞台となった。(p.379)


興味深い指摘。この背景要因としては何があるだろうか?



 当時の商人は、遠隔地間の交易に従事する「客商」と、地元商人である「土商」、店舗商人である「座賈」に大別されるが、概して客商に大商人が多かった。この間にあって、商業界に君臨したのが、「山西商人」および「新安商人」とよばれるグループである。前者は山西省出身の商人をさし、後者は安徽の徽州府(新安は旧名)出身の商人をいうが、ちょうど、日本で「近江商人」などというのと同じ呼称である。かれらのうち、大商人と認められるものは五十万~百万両の資金をもち、中商人でも三十万~四十万両を所有していたといわれている。
 山西商人が大をなした事情については、北防問題と密接な関係がある。すなわち、明朝は、北辺の軍事的消費をまかなうため屯田をもうけて糧食を自給させるとともに、開中法を実施した。開中法とは、商人に米を運ばせ、その代償に塩の販売権をあたえる方法であるが、故郷山西が辺境に近かったから、地の利をえていたかれらは、米穀商と塩商をかねて活躍し、巨富をえたのである。塩は国家の専売品であり、莫大な利益が保証されていた。(p.436)


当時というのは、明代で銀を主力とする貨幣経済が発達してきた時期であるから、15世紀後半から16世紀頃だろうか。

商人の3つの区別は、中央アジアや中東のいわゆるシルクロードの交易を行った商人たちの区分と似ているように思われ興味深い。

山西商人と新安商人が繁栄していたというのも、今からすると少し不思議な感じを受けるが、山西商人については納得のできる説明がなされている。新安商人は客商が多く、それが塩商などになったと説明されているが、なぜあの地域に客商が多かったのかという説明が欲しい。大運河の南端という位置が大きいのかもしれない。

これらの商人の繁栄ぶりは、世界遺産になっている平遙古城や同じく世界遺産になっている安徽古民居群に行けば目にすることができる。ある意味では、政府の政策や北方の脅威という状況があったために栄えたからこそ、政策や状況が変わると歴史の流れから置き去りにされたような格好になり、その遺構(?)を見ることができるわけだ。



 このように、明代における商人の活動は、その中期=十五世紀以来、きわめて活発であったが、大商人の多くは、政府と結んだ政商であった。塩商がその典型である。当時、最大の消費者は政府であり、国家はまた、税役の銀納をつうじて、最大の銀の所有者でもあったので、これと結んで利権を獲得することは、致富の最良の方法であった。したがって、かれらは同郷の団結を重んずるとともに、子弟を官界に送ったり、みずから官職を買うことによって、立場を有利なものとするのに熱心であった。高級官僚のなかに商人の子弟が多いのは、明代の特徴である。(p.437)


政商が大きな力を持つというのは、恐らく普遍的な現象ではなかろうか。もちろん、それの程度は時代や地域などによって異なっていただろうが。


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