アヴェスターにはこう書いている?
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野口雅弘 『闘争と文化 マックス・ウェーバーの文化社会学と政治理論』(その3)

冷戦の終焉以後の「文明の衝突」が主張されている状況に呼応する形で、全体主義概念は再構成されることを求められており、実際に変貌しつつあるという点こそ確認されるべきである。そしてこれに対応する形で、従来ウェーバーの政治思想研究を決定的に規定してきた「ウェーバーと全体主義」という構図、つまりモムゼン・パラダイムも再検討されなければならないのではないか。(p.147-148)


この研究の背景。



「第三期」においてウェーバーは、認識論から全体としての秩序へと関心を移行したというのが本研究のテーゼである。(p.192)


一考に値する。



 ウェーバーの多遠近法性(Polyperspektivität)の認識が成立するのは、フリードリヒ・ニーチェの場合と同様に、啓蒙主義的な視座がひとつのパースペクティブとして相対化され、その特権性が剥奪されることによってである。似たようなことが、ルネサンス以来の遠近法を否定する20世紀の絵画にも当てはまる。ウェーバーが方法論の議論に区切りをつけ、文化社会学へと向かった時期が、いわゆるキュービズムの時代と一致するのはおそらく偶然ではない。いずれの場合においても、複数の非特権的なパースペクティブの関係のあり方が模索されていたのである(p.202)


大変興味深い指摘。

こうした相対化が行われるにあたって、植民地の拡大は一つの重要な契機であったように思われる。ついでに言うと、アインシュタインの相対性理論も同じ時期であり、量子力学などの発見が続くのもこの時代以降のことである。



 丸山真男は、「求道者」としてウェーバーを理解する傾向、つまりウェーバーの主体性に関心を集中させる傾向が、日本のウェーバー研究のひとつの特徴であると指摘している(丸山真男「戦前における日本のヴェーバー研究」『丸山真男集』第九巻、岩波書店、1996年、318-320頁)。ここにおいて丸山は――本研究の言葉を使うならば――「秩序の位相と関係するような文化社会学的なパースペクティブの欠如」を問題にしているのである。(p.205)


こうした批判の対象として、真っ先に思い浮かぶのは安藤英治であり、大塚久雄である。野口氏は折原浩も取り上げているが、妥当である。折原の研究は優れたものがあり、学ぶべき点も多いと私は見ているが、それでもこの傾向は見られると思う。羽入辰郎がウェーバーを非難したとき、折原が激怒したことも、こうしたウェーバー観と関連していると思う。



ウェーバーが「価値自由」を言うとき、その強調点は事実と価値の二元論それ自体にあるのではない。むしろ彼は、ある価値が事実の名のもとに押しつけられる事態に反対なのである。(p.215)


確かに。

これを受け取る側(エピゴーネン)が実践的にこの思想を活用しようとする際には、技術的に言って、事実と価値の混同を戒めることが必要になり、強調点が移行するわけだ。

もっとも、そうした移行があっても、事実上、この区別さえなされていれば、「事実をして語らしめる」ということは抑制されるから、根本的に誤った捉え方であるとまではいえないと思うが。

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