アヴェスターにはこう書いている?
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野口雅弘 『闘争と文化 マックス・ウェーバーの文化社会学と政治理論』(その2)

ウェーバーの「西洋」概念をめぐる議論から自然法というテーマを排除してきた背景として、もうひとつの解釈前提にも言及しておくべきだろう。それは、禁欲的プロテスタンティズム、近代資本主義、そして西洋合理主義は一貫した連続体であるとする解釈枠組みである。
 これまで多くのウェーバー研究者は、こうした解釈枠組みにおいてウェーバーの著作と取り組んできた。その代表的な一人としてヴォルフガング・シュルフターを挙げることができる。しかしながら、禁欲的プロテスタンティズム、近代資本主義、そして西洋合理主義の連続性という前提はそれほど自明ではない。ウェーバーは『宗教社会学論集』の「序言」において、西洋にのみ成立した現象としていくつかの例を挙げている。しかし、それらの意外なほど多くが禁欲的プロテスタンティズムとは関係が薄い。・・・(中略)・・・これらの現象は、「西洋」とプロテスタンティズムをあまりに強く結びつける解釈枠組みにおいて、不自然なまでに軽視されてきた。同様のことが自然法にも当てはまる。(p.69-70)


ウェーバーによって「西洋」に特有のものとして挙げられているものが、禁欲的プロテスタンティズムとは関係が薄いという指摘は妥当なものだと思われるが、それによって禁欲的プロテスタンティズム、近代資本主義、西洋合理主義を一貫した連続体であると見做すパラダイムを批判している。

ただ、禁欲的プロテスタンティズムが近代資本主義の母体であったなどということをウェーバーは明言しておらず、禁欲的プロテスタンティズムによって形成された職業倫理が近代資本主義成立に何らかの積極的な寄与をしたのであろう、ということをウェーバーは言っていたのであり、また、西洋合理主義が様々な分野に浸透していたことから、計算可能性に重きを置いた、近代の「合理的な」資本主義が西欧においてのみ成立した、と言っているのであり、その意味である種の偶然の帰結として西洋にのみ近代資本主義が成立しえたというのがウェーバーの主張だったと思われるし、そのように解釈されてきたものと私は見ている。

その意味では野口氏が批判の対象としているようなウェーバー解釈はそれほど一般的ではないのではないか、という気がしている。



しかし、「西洋においてのみ」という問題設定がはじめて十全な形で定式化されたのは、この『音楽社会学』においてであった。(p.71)


ウェーバーの作品史や思想・テーマの変遷を捉える上で非常に重要かつ興味深い指摘と思う。

ちなみに、『音楽社会学』は1911年に執筆されウェーバー死後の1921年に世に出た作品である。



実際、彼の著作において、西洋と近代が結びつけられている箇所は、思われているよりもはるかに少ない。(p.83)


次にウェーバーを読むときにはこの点にも少し注意して読んでみたい。



信条倫理と責任倫理の違いは、それらが基礎にしているモノ(単)遠近法とポリ(多)遠近法の対立に由来するのである。(p.99)


それぞれの倫理の特徴をやや一面的に上昇している感はあるものの、なかなか興味深い見方であるし、本書におけるウェーバー像を念頭におくと、それなりに説得力もある。



 ウェーバーが「すばらしき微光」を見出したのは、禁欲的プロテスタンティズムにでも、神秘主義にでもなく、むしろフィレンツェの初期ルネサンスの引き裂かれた意識にであった。加速度的に展開する近代社会における専門人と、こうした社会をトータルに否定する神秘主義ないしネオ・ロマン主義をともに拒否しようとする理論家が、社会像ないしユートピアとして絞り出したのは、対立の除去ではなく、「対立のバランス取り」だったのである。ウェーバーが闘争にこだわるのは、こうした事情に根ざしている。彼はまさに闘争に「人間の尊厳」を見出すのである。(p.139)


ここは本書が提示するウェーバー像をかなり濃縮して語っている箇所の一つである。

なお、闘争に人間の尊厳を見出すという点は、闘争が情熱と結びついており、情熱なしになしうることは無価値であるという『職業としての学問』におけるウェーバーの発言とも合致している。



マックス・ウェーバーとアビ・ヴァールブルクはともに不安定な精神をかかえており、「逸楽郷」ないし「天国」において救済されることをある意味で強く求めていた。しかしそれにもかかわらず、彼らはともにこれを拒否したのである。(p.140)


私見では、「それにもかかわらず」拒否したのではなく、「それだからこそ」拒否したのだと思われる。



 これに対してウェーバーは、「世界のさまざまな価値領域が相互に調停できない闘争にある」、そうした「日常に耐える」ことを求める。彼の著作はこうした世界観が結実したものである。したがって、闘争を強調する社会理論が容易にいわゆる権力政治と結びつくことはたしかであるとしても、彼の「権力政治」をいわゆる帝国主義的な政治の枠内で理解することはできない。(p.143)


野口氏はこのようにしてかつてウェーバーに対して向けられた批判から彼の理論を救い出そうとする。確かにウェーバーの主観的な意図からすれば野口氏の指摘はかなり妥当だと思われる。しかし、理論・思想というものは、表現されたことによって本人の意図を離れて動いていくものである。そこまで計算に入れる場合、たとえウェーバーの主観的な意図を正しく汲んでいないとしても旧来のウェーバー批判にもある程度の分はあると認めざるを得ないように思われる。

むしろ、例えば、終わりなき闘争における「闘争」をより穏健な概念によって置き換え、それによって世界を再構成して新たな理論を構築することが必要であり、その際の土台のひとつとしてウェーバーを利用するというようなやり方が求められるように思う。世界の動き(作動)は認識によって即座に変わるわけではないが、その思想に基づいて行動することが世界の作動を変えることはありうる。意図せざる結果を伴いながらではあるが。

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