アヴェスターにはこう書いている?
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佐藤優 『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(その1)

新聞は婆さん[※引用者注;田中真紀子外務大臣(当時)のこと]の危うさについてきちんと書いているんだけれど、日本人の実質識字率は五パーセントだから、新聞は影響力をもたない。ワイドショーと週刊誌の中吊り広告で物事は動いていく。(p.97)


これは佐藤優の言葉ではなく、外務省幹部の発言の部分からの引用であるが、強調した箇所には激しく同意する。

「実質識字率」というのは、それなりに彫琢すれば、なかなか使える概念かもしれない。

「実質的な識字能力」が身についているといえるためには、単に新聞の文字面の意味を読めるというだけではなく、なぜそのニュースがこのタイミングで出てきたのか、また、なぜこのニュースの扱いが大きいのか、あるいは小さいのかが理解できるかどうか、また、中立的ないし客観的な姿勢を建前としている場合でも、その文章がいかなる仕方で理論負荷されているのかを読み取れるかどうか、また、ニュースに書かれているべきことのうち、何が書かれていないのかを読み取れるかどうか、初歩的なところでは、論理的な推論に誤謬や飛躍がないかどうか、あるとすればそれはなぜか、ということなどが読み取れなければならないだろう。

そのために必要な教育が日本では充分にされているとは言い難い。教育改革が必要だとすれば、それはこの点についての改善がなければならないだろう。

また、より一層示唆的なのは、世論が冷静かつ理性的に物事を判断するだけの力を持たないという現実認識に立てば、「民主主義」の理想に原理主義的に拘るよりも、「デモクラシー」という制度的な担保は留保しておいた上で、ウェーバーが唱えたように「政治的決定はつねに少数の者の冷静な頭脳によって行なわれる。街頭での煽動や情動に左右されてはならない」(牧野雅彦 『ヴェルサイユ条約 マックス・ウェーバーとドイツの講和』p.38)という方針で行われるべきであるという帰結に導かれる、ということである。

私は「民主主義」の原理的適用には反対であるが、「デモクラシー」の制度を民主主義の理念を念頭におきながら活用することには賛成であると言う意味で、「批判的」に民主主義に対峙しているのだが、こうした見解と、上記のような「実質識字」ができない人間が多いという現実を踏まえて「弱い個人の仮定」に立って政策や制度設計を行うべきであるという政策立案者として必要な考え方とは非常に整合的であるということを再確認しておきたい。




私が見るところ、ナショナリズムには二つの特徴がある。第一は、「より過激な主張が正しい」という特徴で、もう一つは「自国・自国民が他国・他民族から受けた痛みはいつまでも覚えているが、他国・他民族に対して与えた痛みは忘れてしまう」という非対称的な認識構造である。ナショナリズムが行きすぎると国益を棄損することになる。私には、現在の日本が危険なナショナリズム・スパイラルに入りつつあるように思える。(p.152-153)


ナショナリズムの特徴として「より過激な主張が正しい」とされるというのは、なかなか鋭い見方であると思う。ただ、もう少し正確に表現するならば「より過激な主張が一層好まれる」ということである。

私の見るところでは、「ナショナリズム」とは「思想」や「主義」といったものではなく、「感情」ないし「信条」あるいは宗教における「信仰」として規定されるべきものである。

理性Vernunftとか理論とかいったものは、ここでは重視されない。そうではなく、「感情」を強く揺さぶる(奮い立たせる)主張が「好まれる」ことになる。

「非対称的な認識構造」という特徴とは、もっと一般的に言えば、「自己中心性」であり、佐藤優が指摘しているのは、その認知的な側面に過ぎない。

これら2つの特徴を別々のものと考えるのではなく、「ナショナリズム」という「感情/信仰」は「自己中心的なもの」という特徴を持っているものとして押さえておくべきであると私は考える。もっと端的に言えば、「ナショナリズム」とは一種の「自己中心的な感情/信仰」である、と言える。

感情や信仰であっても、他者への共感などが重視される傾向のものであれば、そこから他者を尊重するという方向性も出てくるが、ナショナリズムという自己中心的な感情/信仰においては、「他者」に対する共感の要素は存在せず、他者に対しては必然的に排他的な傾向を示すことになる。

これをさらに敷衍すれば、他者が「自己」よりも軍事的経済的などの点で劣ると判断した場合には、他者に対して容易に征服や支配を行うことも正当化しようとすることになり、その感情/信仰に基づく主張および行動は、帝国主義や植民地主義などの形を取ることになる。同様に「自己」の勢力が「他者」よりも不利であると判断される場合には、同様の排他性から「現行政府に対する『革命勢力』」や「侵略者に対する『反帝国主義』『反植民地主義』」のような形態を取ることもある。

いずれにせよナショナリズムに欠けているのは、「自己」と「他者」を相対化する契機と、それらの区別を保持する場合における「他者」への理解と尊重という契機である。

本書ではナショナリストはナショナリストを尊重することがあることについて書かれているが、私が見るところでは、そうしたことが起こりうるのは、当該ナショナリストがナショナリズムに基づくだけの言動をするのではなく、その感情/信仰をコントロールするだけの理性的対応や実務的なプラグマティズムをも持ち合わせている場合であり、これらの要素がナショナリズムの感情/信仰の自己中心性を十分に抑制できている場合だけであると思われる。思うに、筋を通すことが好まれるのもその故であろう。



 第三に、官僚支配の強化である。外務省をめぐる政官関係も根本的に変化した。小泉政権による官邸への権力集中は、国会の中央官僚に与える影響力を弱め、結果として外務官僚の力が相対的に強くなった。ただし、鈴木宗男氏のような外交に通暁した政治家と切磋琢磨することがなくなったので、官僚の絶対的な力は落ちた。(p.153)


興味深い指摘である。

決定の権限が現場から離れたことで、相対的に現場の力が強まった(中央が現場の官僚をコントロールできなくなった)ということであろう。しかし、そこには外部(政治家)からの圧力という緊張感は欠けており、独善的になりやすくなったといえる。

明らかにこうした組織の編成は、組織の運営という観点から見る限り失敗であるといえるように思われる。



 専門家以外の人にとって、イスラエルとロシアが特別な関係にあることはなかなかピンとこないにちがいない。(p.159)


このあたりのことについて、少しばかりでも認識が深まったことは本書から得た収穫の一つだった。



 「新移民」は、ロシアに住んでいたときはユダヤ人としてのアイデンティティーを強くもち、リスクを冒してイスラエルに移住したのだが、イスラエルではかえってロシア人としてのアイデンティティーを確認するという複合アイデンティティーをもっている。
 ロシアでは伝統的に大学、科学アカデミーなどの学者、ジャーナリスト、作家にはユダヤ人が多かったが、ソ連崩壊後は経済界、政界にもユダヤ人が多く進出した。これらのユダヤ人とイスラエルの「新移民」は緊密な関係をもっている。ロシアのビジネスマン、政治家が、モスクワでは人目があるので、機微にふれる話はテルアビブに来て行うこともめずらしくない。そのため、情報専門家の間では、イスラエルはロシア情報を得るのに絶好の場なのである。しかし、これまで日本政府関係者で、イスラエルのもつロシア情報に目をつけた人はいなかった。(p.162-163)


「複合アイデンティティ」の話はアイデンティティなるものが備えている性質を幾つか示しており興味深い。例えば、予め決まった「自己」が存在するのではなく、「他者」との「区別/差別化」することから構成されるということが特に重要である。すなわち、その「自己」は誰(どの他者)に対しての自己認識(アイデンティティ)なのかによって、どのようにでも変わり得るものなのである。

ロシアとイスラエルの関係について考察する際に、佐藤優は人的ネットワークに注目しているわけだが、これはネットワーク研究の射程の長さを示しているように思われて興味深かった箇所である。


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