アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

山之内靖 『日本の社会科学とヴェーバー体験』(その3)
「第六章 戦時期の社会政策論」より

ダンデカーから現代社会の成立にかかわる印象的な諸定義を援用すれば、以下のようである。「世界戦争の軍事史上目的は、現代国家の監視能力を軍事をこえて劇的に拡大した」。「鉄道とともに、戦争に向けた全社会の動員が可能となった。……軍事組織と社会の間の区分という18世紀的特徴は解体した。官僚制的軍事マシンは社会それ自体へと拡大した」。「近代官僚制的戦争マシンの出現は、戦争と平和の区分を解体するという結果をともなった」。「戦争の産業化と民主化は、戦争と平和、軍事と非軍事の区分を曖昧にした」。(p.149)


特に19世紀後半から20世紀前半にかけて、軍事や植民地主義に対して鉄道が果たした重要性というのは、強調されすぎることはないであろう。

また、軍事と非軍事の区分が曖昧になったというのは、まさに総力戦下の状況をうまく表現したものだといえる。

これは実際問題として、兵士と一般市民の区別も曖昧になるということである。一般市民も軍事に協力している者だからである。その意味で第一次大戦におけるドイツの無制限潜水艦作戦や日中戦争における重慶爆撃、太平洋戦争における東京大空襲のような事態が発生してしまうことにはある種の必然性があったと言う事ができる。(念のため断っておくと、このような認識を持つことと、こうした行為に加担することは別のことである。)総力戦であるが故に現出される悲劇。



平和憲法の下での戦後諸改革にもかかわらず、その後に現れた日本社会の構造は、総力戦という未曾有の緊急事態に迫られて着手された社会改造によってその方向性を決定されていた、と大河内は見ているのである。(p.150)


このあたりは、中国を共産主義というレッテルで見てしまったが故に実態を見誤るのと同じで、日本も平和憲法の下での改革があったことから「平和国家」になったと見るのは無批判的というものであろう。むしろ、「平和国家」になりきれないからこそ、平和の理念を実現する方向への不断の努力がなされなければならないのである。その点で、大河内のような見方は妥当なものを含んでいると考える。



「第七章 総力戦からグローバリゼーションへ」より

アメリカ社会は脱軍事化したのではない。それは情報・金融革命の時代に相応した形態へと軍事システムを洗練化したのである(米本昌平「グローバルパワーゲームの行方」『知政学のすすめ――科学技術文明の読みとき』中公叢書、1998年、参照)。この新たなグローバリゼーション時代に対応した軍事システムにとって、第二次大戦時代のシステムは単に廃棄されるのではない。それは新たなシステムの歴史的前提としてそこに吸収されるのである。


この認識はこの論文集の随所で繰り返されているが重要な認識である。ただ、アメリカは第二次大戦の後にも朝鮮戦争やベトナム戦争などを通して軍事システムを洗練化させてきたことへの言及がないところは、いかにも「日本的」である。



総力戦体制は、高度な戦略的技術を装備した社会を、高度に効率的なシステム社会として統合するものであった。この過程は、現在進行中のグローバル化にとって、その不可欠な先行条件となったに違いない。総力戦体制の研究は、ポストモダンとかポスト・コロニアルという時代状況を語る場合、そのポストの意味について理論的内容を付与するという役割を担っているのである。(p.179)


なるほど、と唸らされた箇所である。ポストモダンもポストコロニアルも、いずれも「ショボいよね」と思いながらスルーしてきた私であるが、そろそろこれらを批判するにあたり、機は熟したと考えている。

ポストモダニズムはどちらかというと政治的には右寄りの議論に――主張者達の意図に反して?――加担することになったものであり、その反知性主義的な傾向に対しては対抗する必要を以前から感じていた。

また、ポストコロニアリズムは90年代以降の左翼の主張の代表的なものであるように思われるが、その主張が右派の反感を買い、それを直接的に掻き立ててしまうということによって、これまた主張者達の意図に反して、右傾化に加担してしまった面があるように思われる。社会的というより個人的な道徳的判断としてみる限り、私は彼らの主張の倫理性には異議を差し挟む気はないし、彼らが掘り起こした事実などには大いに学ぶものがあったのだが、社会的な発言としてはもう一ひねり何かが必要なのではないか、というのが私の感覚だった。

また、このこととも関連するが、これが観察者の認識に過ぎず、未来への展望を示しえない後向きな認識でしかないというところが、私の批判が向かう最大のポイントなのだが、これは位相をことにする地点からの批判であるため、当事者に響くかどうかというと相手の理解力などによってかなり左右されるため、実践的に議論で使えるかというとやや問題であり、あえて相手と同位対立の場に下りて行った中で行う批判も考えておくのも悪くない。

いずれにせよ、「総力戦」研究が批判対象を逆に規定していくという本書の指摘はかなり参考になりうるものだと思われる。



 ヴェーバーは、純粋力作型の職業人を生み出したヨーロッパ近代の精神こそは、官僚制的な疎外がそこから発生する「倫理的基礎」だと指摘していたのである。
 ・・・(中略)・・・。
 この巨大なパラドックスこそは、20世紀ヨーロッパの知識人を悩ませた哲学的な責め苦であった。そもそも、戦後いちはやく邦訳されたカール・レーヴィットの『ヴェーバーとマルクス』(1932年。邦訳初出は1949年)は、初期マルクスの疎外論とヴェーバーの合理化論の相似性を摘出することによって、このパラドックスの所在を明らかにしたのであった。(p.187)


レーヴィットの著作を私は読んでいないのだが、本書で随所で語られており、また、他の著者もしばしば彼の著作に言及していることから、やはり読んで見なければならないと思い始めた今日この頃である。



 マリアンネの『伝記』は『古代農業事情』第三版[邦訳では『古代社会経済史』]の執筆時期について二度にわたって「1908年の秋」と記している。Lebensbild, S.343, 371.[邦訳、Ⅰ、260ページ。Ⅱ、280ページ]。そのため、多くの研究者が同書の執筆時期を1908年秋としている。だがこれは明らかに誤りである。(p.209)


この論文は、山之内によると1907年の末から1908年の初頭にかけて書かれたとのこと。なお、世に出たのは1909年のことである。



「第一〇章 テクストとしてのヴェーバーと読者の救済願望」より

 だが、私の作業にも、こうした前例や同時代的潮流からは区別される独特の貢献があった、といささか自負しています。それというのも、ニーチェとヴェーバー関係に関するこれまでの蓄積の中では、ヴェーバーが精神の病に苦しんでいた中期――1898年から1910年にいたる期間――に焦点を合わせ、この時代の業績からヴェーバーの方法的発展を抽出してくる作業は、ほとんど皆無といってよい状態だったからです。この空白は、他ならぬ古代史研究がこの時代に形成されていることを考えてみるとき、見過ごすことができない欠落だったとしなければならないでしょう。・・・(中略)・・・。
 幸いなことに、ここで得られた果実はなかなかに充実したものでした。この吟味によって私は、これまで「祭司と予言者」ないしは「教会と宗派」という対抗関係を中心とするものと解釈されてきたヴェーバー宗教社会学の中に、それとは別種の対抗関係――つまり、「祭司と騎士」の対抗関係が根づいていることに気づくこととなりました。ここからは、さらに、「予言者と騎士」の対抗関係という、まったく見過ごされてきたいま一つの論点が働いていることも、明らかになってきます。また、従来、古代社会についてもっぱらオイコス(家族経営)という視点に立って構成されていると理解されてきたヴェーバーの観点が、実は『古代農業事情』第三版にいたってライトゥルギー(対国家奉仕義務)という新たな観点によって構成し直されていたことも判ってきました。(p.218-219)


これらの関係に光を当てたことは、確かに山之内の貢献であると私も思う。彼の『マックス・ヴェーバー入門』から学んだ点である。そして、本書を読むことで『入門』の内容をより深く理解できると思う。よって、山之内の『マックス・ヴェーバー入門』を読んで面白いと思った人は本書も読むことを勧めたい。



これこそはヴェーバーをして彼たらしめているといってもよいほどのあのカリスマ概念の展開は、恐らく、ニーチェを発想の源の一つとしていたことでしょう。このカテゴリーは、近代社会がその世紀末的状況において大衆化の傾向を顕著に示した時に現れてきました。このカテゴリーは、大衆社会における民主主義が剥き出しの物欲や卑しい依存の意識を増幅する装置として働くようになった時、それに嫌悪を感じざるを得なかった人物が抱いた反発の感情から生まれでてきたのです。ニーチェにせよ、ヴェーバーにせよ、古代ギリシャの戦士市民層にみられる名誉感情に強い共感を抱いていたのはそのためでした。(p.234)


カリスマ概念がニーチェを発想の源の一つとしたというのは、ちょっと「読書人」的な発想が強すぎる感じがする。カリスマ概念の源泉としては、現実の政治家との交流などの方を重視すべきであるように思われる。それを具体的にどのように帰属させるかは今の私にはまだできないが、こうした情動を強く揺さぶる概念の発案は、基本的には文章によって触発されるよりも生活の体験の中でこそ得られたものと見る方が妥当であるように思われる。

ただ、ニーチェとウェーバーの両者が、共通する(一種の)理想像に共感を感じていてたという指摘は参考にすべきところであろう。



「第一一章 悲劇の精神と新しい知のホリゾント」より

 ニーチェのそれは古代ギリシャと大衆化しつつある世紀末ヨーロッパの直接的な対比という色彩を強くもっていますが、ヴェーバー社会学にもカリスマ概念というのがあって、これはニーチェの超人の概念にほぼ対応するものです。(p.241)


なかなか興味深い対比。具体的な指示内容というよりは、批判対象というか否定の対象が共通しているという点でこれらは対応していると見るべきであろう。



いったんヨーロッパ宗教改革がもった巨大な精神文化的意義が確認された上で、まさしく歴史的意味を持ったこの可能性そのものが、その可能性ゆえに限界にたどり着くとヴェーバーは見るわけです。(p.241)


この見方はシュムペーターの資本主義のようだ。シュムペーターによれば資本主義はそれの成功の故に限界に達するとされるからである。



 しかし、ニーチェとヴェーバーが現れた時代においては、彼らの提示した問題が「ネイション」に引き寄せられて解釈された、ということを無視することはできません。ニーチェとヴェーバーが提示した問題は「ネイション」というレヴェルに引き寄せられたのであり、彼らが提起した「悲劇の精神」の本来の意味は矮小化されてしまう。こうしてニーチェとナチズムの近さということが、戦後ずっと取り沙汰されてきました。
 ヴェーバーについてもモムゼンの『マックス・ヴェーバーとドイツ政治』が1959年に刊行された時には、やはりヴェーバーの社会科学的構想、とりわけカリスマ概念が、ナチズムの台頭に責任を負うものとして糾弾されて、大きな話題となりました。もっとも現在のモムゼンはこの立場を放棄し、むしろヴェーバーとニーチェの親縁性の中にこそ現代社会が直面している問題を解き明かすカギがあるという立場にシフトしています。(p.252)


モムゼンのこの本もウェーバーの思想が政治的な側面から読み直されるべき今日にあっては読み直されるべき本であるかもしれない。私は何だかんだ言いながら結構高い(し分厚い)こともあって、この本を持っていないのだが…。



「第十四章 私家版丸山政治学改題――リッターリッヒカイトの問題をめぐって」より

 私はこういう脈絡からおして、ヴェーバー社会学を読み取ってゆく場合、これからはリッターリッヒカイトの問題のウェートを高めて読んでゆかなければならないと思っています。これはヴェーバーの単なる読みかえという問題ではない。本来ヴェーバーという人は、そういう志向を強烈に持った人であった。(p.322)


この指摘は確かにきわめて重要なものであると言える。この点は、実践的な政治の場でもウェーバーが「名誉」を重んじたこととも極めて深く関わっていると思う。

しかし、山之内の議論に一つ批判的なコメントをつける必要を感じる。かつて大塚久雄がウェーバーを禁欲的プロテスタンティズムの信徒達とプロテスタント神学にシンパシーを持っているものとして読んだのと同じように、ウェーバーを騎士層と古代ギリシアの戦士にシンパシーを持っているものとして読み替えることになっては、類似の誤りを犯すことになりはしないか、ということである。

むしろ、ウェーバーは様々な要素の緊張関係の中を生き抜くこと、その緊張関係に(「男らしく」)耐えることそのものに価値を置いている面もあるように思われる。山之内の議論は、大塚久雄らの議論に反対するあまり、プロテスタントへの共感を持つウェーバーを過小評価して描き出す傾向があり、山之内の議論を大塚らの議論を知らない世代が読むとしたら、読み間違えるのではないかという懸念がある。

スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/529-a2808cd2
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)