アヴェスターにはこう書いている?
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山之内靖 『日本の社会科学とヴェーバー体験』(その2)
「第三章 総力戦の時代」より

 近代社会において政治秩序の中心に位置していた議会は、総力戦の時代にはその統治能力を喪失する。ワイマール体制下のドイツが「権力の真空状態」(ブラッハー『ドイツの独裁』)に陥ったことはよく知られているが、類似の状況は1929年の世界恐慌いらい、すべての国々を襲った。議会にかわり、大統領府(アメリカ合衆国)、独裁政党(イタリア、ドイツ)、軍部独裁(日本)が登場する。世俗生活の宗教と化した国民国家は、社会の構造変革を強制的に推し進める力を獲得した。(p.94)


00年代前半に日本で内閣機能の強化が叫ばれ、さらなる中央集権化を進めたことは、こうした流れと共通点があり興味深い。軍部独裁を髣髴とさせる安倍晋三の暴走により教育基本法が強行採決で書き換えられたことや、その後の「ねじれ国会」により議会が機能不全に陥っていることなども含めて示唆的である。



第一次世界大戦がニューディール時代の大統領府を誕生させる歴史的起点であったことは、すでに歴史教科書(Jonathan Hughes, American Economic History, 1987)によって確認されているが、このニューディールの時代に、アメリカ合衆国は革命をへることなしに建国期の憲法を事実上廃棄し、「第二共和制」時代に移行したと、セオドア・ローウィ(『自由主義の終焉』)は語っている。(p.94-95)


現在のオバマ政権でも「ニューディール」が語られていることが想起される。上の引用文と合わせて考えるとさらに興味深い。



 ナチス官僚も日本の革新官僚も、また、ニューディール官僚も、市民と大衆の「国民化」(G.モッセ)に向けて精力的な活動を展開した。彼らが当面したのは、総力戦時代の国民的動員を従来のままの体制で遂行するならば、ロシア革命に類した破局は避けられないという切迫した事情であった。19世紀型の階級対立は、教育改革・職業訓練・職業紹介・医療保険・失業保険・年金といった制度改革によって、あるいは労働者・農民・中小企業者・女性の保護によって制度化されたコンフリクトへと体制内化されなければならない。本格的な福祉政策は、こうして、総力戦とともに始まった。シェルドン・ウォリンが福祉国家(welfare-state)とは戦争国家(warfare-state)の別名であると述べたのは、この脈絡を指してである。日本において内務省から厚生省が分離独立したのは第二次大戦中のことであったのは、象徴的である。満州事変以後になって国家資金(科学研究費)が大量に大学に供給されるようになり、大学(=科学)の体制内化が進行したと指摘されていること(廣重徹)にも、注目すべきである。(p.95)


「福祉国家」と「戦争国家」はイコールではないと私は考えるが、ここで述べられているようにして「危険な階級」が体制内化されたことは確かである。

ところで、山之内はこうして階級闘争が体制内化されたことによって、「システム社会」に移行したと見ているようである。それなりに興味深い見解であるように思われるが、ここでは「システム」の概念が「動的静態系」のような「固定された全体性」のように捉えられているように思われ、違和感があるところである。山之内がパーソンズのシステム理論の影響下にあることから、システム概念がこうした特徴を帯びてしまうことは避けがたいのかもしれないが。



「第四章 戦時動員体制の比較史的考察――今日の日本を理解するために」より

 我々は、今や最先端をゆくとして世界の注目を浴びはじめた日本の産業組織が、戦時動員体制期において横断的労働組合の徹底的弾圧という抑圧的歴史を持ったことを、また、そうした抑圧的歴史を経たが故に、早熟的に会社組合的形態を発達させたという事実を、忘れることはできない。・・・(中略)・・・。
 この逆相関関係を念頭において事態をとらえ直してみると、ポストモダンの先頭を走ると言われる日本社会の貧困さが、否応なしに浮かび上がってくるであろう。この社会においては、すべての人間が今や自分をミドルクラスだと感じている、とされる。しかし、実態としてみれば、それは全くの幻想という他ない。ミドルクラスの内部には、企業やその内部部局の頂点に立ち、高度なプログラムの実現に権力意志の充足を感じうるエリートと、彼らエリートのマシーンとして走狗の如く駆使される下層ホワイト・カラーの階級的区分が、蔽い難く存在している。労働組合の批判的力量が著しく低下している現在では、鋭く分化しつつあるこの分割線を押し戻しうる社会的対抗力は、どこにも存在していない。(p.121-122)


この文章は88年に出されたものであり、ジャパン・アズ・ナンバーワンなどと言われた80年代のバブルの真っ最中に発表されたものである。日本の労働組合が産業別ではなく企業別であることの要因が、戦時動員体制に起因することについて鋭く指摘し、さらに2000年代半ば以降になってようやく表面化した(誰の目にも明らかになった)「格差」の存在が指摘されている。

ここで指摘されている状況は00年代に入り、一層先鋭化した形で突きつけられている問題である。

なお、山之内のこうした慧眼には敬意を表するが、こうした発想がでてきたのは、当時の日本の政策が急速に新自由主義的な路線へと切り替えられようとしており、そのことへの危機感が一部では高まっていたことが挙げられると思われる。



「第五章 戦時動員体制」より

だが、従来の諸理論は、戦争を国民国家にとって例外的な逸脱現象とみる偏見を暗黙の前提としている。(p.126)


「国民国家」にとって、戦争は「逸脱現象」ではない、という認識は非常に重要であると思われる。

政府には常に戦争へと向かおうとするベクトルが存在しているのであり、そのための動員の装置が常に機能している。この点を明確に意識しながら、そうした暴力が先鋭化しないように制御することが、政治的な責任を負う有権者には重要なのである。

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