アヴェスターにはこう書いている?
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牧野雅彦 『ヴェルサイユ条約 マックス・ウェーバーとドイツの講和』

 第一次世界大戦の終結の際に調印されたヴェルサイユ講和条約を「戦争責任」という観念と戦争の「不法化」の起点とするこうした説明は、二度目の世界大戦と連合国の勝利の下で形成された「戦後」の世界に住んでいるわれわれにとって、なかば自明のこととして受けとめられている。だが、最初の世界戦争の当時の人々にとって、「戦争責任」という観念は決して自明のことではなかった。(p.4)


大変興味深い指摘である。

本書は著者のマックス・ウェーバー研究の副産物だと言われているが、「ウェーバー文献学」に埋没することなく、このようにアクチュアルな課題に対しても問題を提起する良書である。



 大戦中の政治論文の中でウェーバーはくり返しこう述べている。政治的決定はつねに少数の者の冷静な頭脳によって行なわれる。街頭での煽動や情動に左右されてはならない、と。(p.38)


ウェーバーのこの議論はある意味では「民主的」でないように思われるかもしれない。しかし、民衆には十分な情報を保持しえないということなどから考えても、妥当な考え方ではないかと私は思う。ただ、その決定を少数者が下した際に、大衆に対してある程度納得させるような説明を行う責任があるということだけは付け加えるべきだろうが。

現在の日本の社会のように、マスメディアがやたらと政治的な問題を煽り立てる状況というのは、まさにウェーバーが危惧している状況である。



ウェーバーはパリの講和会議から戻った後に、アイスナーのお膝元であったバイエルンのミュンヘン大学に――1919年2月21日のアイスナー暗殺後の急進的なレーテ共和国設立の試みとその崩壊で混乱の続くさなかに――赴任することになるが、ウェーバーの周囲に独立社会民主党系ないしはリベラル左派系の「平和主義者」あるいは「ウィルソン主義者」が比較的多く存在して、また個人的にも関係があったという事情は、『職業としての政治』での発言を理解するときに考慮する必要があるだろう。(p.75-76)


なるほど。



たとえばイスラム世界での汎イスラム運動を支援とするというように、敵対国支配地域の革命運動を支援し、その破壊的効果を狙うというのがドイツ側の一つの戦略であった。ロシア革命はその成功例――成功しすぎた事例――いうことになる。(p.89)


現代でもしばしば見られる戦略である。世界システムにおいて半周辺的ないし周辺的な地域では特に効果的な方法と言えると思われる。



かたや敗戦国ドイツにおいては、戦争指導者への批判や、あるいは戦争を絶対悪として、それに手を貸した下手人さがしが行われている。「戦争責任」追及の背後には自らを「正義」の立場におくというかたちを変えた復讐感情が存在する。いかに「正義」や「国際協調」といった美しい理念が語られていようとも、それが復讐感情に基づいている限り本当の和解は不可能であるし、むしろ現実的で妥当な戦後処理を妨げるものでしかない。これが「戦争責任」論に対するウェーバーの批判の根底にある認識であった。(p.127-128)


「戦争責任」に限らず「政治責任」なども含めて、他者の「責任」を追及する行為には大抵、こうした復讐感情が存在する。当時のドイツの状況と同じではないが、現代の日本の右翼だけでなく左翼にも、こうした自己正当化の立場から発言しているものはしばしば見受けられるし、中国や韓国などのいわゆる「反日」的な言説というものも、こうした自己正当化の立場の一種であると見ることができる。

「責任」を正面に据えた議論というのは(相手を一方的に妥当することが可能である場合を除き)、やはり外交や政治においては一般的にあまり適当なやり方ではないという思いを強くするところである。



 ともあれ戦争をめぐってはそうした国民的な「正義の要求」と「威信」が関与して、しかも戦勝国・敗戦国ともに戦争そのもののもたらす厖大な被害が不可避的にルサンチマンをかき立てることになる。そうであるからこそ、そうした問題からできるだけ切り離して――ウェーバーは実質的な事柄に即するという意味で「ザッハリッヒ」という言葉をしばしば用いている――講和と戦後秩序の問題は処理されねばならない、というのがウェーバーの主張であった。
 ・・・(中略)・・・。戦争責任の問題について不毛な議論を重ねるのではなく、相互の立場(もちろん勝者と敗者という立場の違いを踏まえて)に即した実質的な、いわばビジネスライクな取引(ともちろん駆け引き)が行われてしかるべきである。(p.131-132)


「正義の要求」や「威信」とは切り離して実質的な事柄に即して処理するという方針は、日本が関わる戦後処理にも必要なことであると私には思われる。そして、これを行うためには、少数者の冷静な決定が必要なのである。



彼の学問的作業の中心をなす宗教社会学の焦点が民族存亡の危機の時代の預言者の分析(『古代ユダヤ教』)におかれているのはおそらく偶然ではない。政治的には解体して国民としての存在そのものを喪失したユダヤの民とその精神が世界史に大きな影響を与えたという逆説的な関連をウェーバーは自らの祖国の運命と重ね合わせていたのである。(p.248)


なるほど。興味深い指摘である。

ウェーバーの研究はこれまで宗教社会学を中心として、経済現象に関する問題に適用されてきた感が強いと思う。もう一つ、社会科学方法論も盛んに研究されたが、これは戦後から高度成長くらいの時代以前にはディシプリンとしての社会科学が十分に成立しきっていなかったことと関連していると見てよいだろう。

昨今の日本の言論状況はやはり政治的な色彩が強くなっているのにあわせて、ウェーバーの議論を政治学的ないし政治思想史的な観点から読み直してみるというのは、現代の言論状況にマッチした読み方なのかもしれない。

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