アヴェスターにはこう書いている?
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陳桂棣、春桃 『中国農民調査』(その2)

 民が官を相手取った寧国市南極郷の訴訟事件は、民の勝利で幕を閉じた。宣城地区の中級裁判所は、南極郷人民政府に対し、再度査定という具体的行政行為を行えとする判決を下した。そして、強制的な徴収は違法であり、規定に基づかない植林基金の徴収も同様に違法であるという判決を言い渡し、本件の裁判費用はすべて南極郷人民の負担としたのだった。
 判決公判が終わったとき、南極郷の周小平副郷長は、目に涙をためていた。彼にはどうにも悔しくてならず、ひどく困惑していた。今後南極郷では、農業特産税を「現物に基づいて徴収する」方法がなく、しかも、これら徴収の仕事は上からの割り当てなのである。農民の代表たちも涙でほおをぬらしていた。彼らはつらい思いをし、憤った。いま、法廷から出てきて、大雨のなか、黒いかたまりのようになって立っていた農民たちと合流したとき、そのほおに流れるのが雨なのか涙なのか、わからなくなってしまった。彼らは法律という武器を使って、郷政府の意のままの税の徴収を防ぐことに成功した人々だった。(p.247-248)


本書は一貫して農民の立場から記述されているが、郷鎮政府からしてみれば、歳出は義務づけられながら歳入が保障されていない中で業務を行うにあたり、住民=農民から各種の料金を徴収せざるを得なくなっているというのが実態であるように思われる。その意味で本書のスタンスは偏っており、一方に肩入れしすぎているという点で客観的な叙述とは言えないように思われる。

公平のために述べておけば、本書にも一応、こうした点に触れて論述している箇所はあるのだが、そうした認識が十分にあれば、官を非難するときに本書ほど一方的にはなりえないだろう、と反論できるのである。中国の地方政府が違法な徴収を行っており、それも公安なども使って強制的・強権的に徴収を行っていることが明るみに出され、批判されるべきではあるが、中国全土でこうした事件が起きているとすれば、それは中央政府のやり方に問題の根源があると見るべきであり、そこを批判しなければならないように思われる。中国の言論状況ではそれははできなかったために、こうした論調になったという側面もあるのかもしれない。(実際、本書の中には、出版時点での権力者に対してはヨイショしている発言が散見される。)

実際、本書で指摘されていることと似たことは日本国内で起こっていることである。つまり、政府間関係において、中央政府が地方政府を歳出面での拘束をしながら歳入面での保障をしていないために地方政府が機能不全に陥っているという状況である。地方政府に対する歳出の自治が認められないのならば、地方政府に対する歳入の保障を中央政府がすべきなのである。

余談だが、私自身の認識にとって重要な点なので一言述べておく。

神野直彦は、日本の地方政府には、歳出の自治も歳入の自治もないと指摘し、歳入の自治を拡大しなければならないという議論をかつてしていたが、これは誤った方針である。中央政府による統制によって歳出の自治がないのならば、中央政府がその分の歳入の保障をしなければならないのである。地方政府には、歳出が縛られていない分を補完するだけの歳入の自治が保障されれば、それでよいのである。私自身が地方自治論や財政学を学び始めたとき、この神野の議論に乗ってしまい、暗礁に乗り上げたことがあるのだが、自分が陥った誤りは現在このように訂正されている。

中央政府が財政責任を果たさないことに問題があるのであり、その財政責任を果たせない原因の重要な問題が有権者の増税忌避にあるということは改めて指摘しておこう。要するに、アホな有権者たちのおかげで、行政による最低生活保障がまともになされない(ないし、セーフティネットが不備だらけになっている)という状況になってきている、ということである。「必要なことを行うために必要なだけの拠出=増税をするのは当然である」という常識が共有されなければならない。



1994年まで、各地の農村で教員の給与が滞ったことはなかったが、94年に国税と地方税の分税制が開始されると、地方の財力が削られたため、経費を農民から徴収する教育付加費と教育資金に頼ることとなった。それでも年間で三億元も不足する教職員の給与を銀行から借り入れて何とかしのいでいた。この負債は累積し、2000年には17億元にも達した。税費改革試行後は、教育付加費と教育資金の二項目も徴収できなくなり、義務教育の経費は郷や鎮の財政予算からまかなうほかなかったが、もともと自転車操業の財政からこの費用を捻出することは不可能だった。・・・(中略)・・・。つまり、中央と地方で、財政権と行政権がいちじるしく分離しているということだ。地方の財政収入が少ないというのに、義務づけられた事業が多すぎる。(p.258-259)


前のエントリーで私が指摘したことが集約的に語られている箇所といえよう。「地方分権」とは「中央政府の財政責任の放棄」であり、それでいながら地方政府に「義務づけられた事業」はそのまま残っているために、中国では地方政府は徴収する金額を増額した(教育付加費、教育資金)のだが、それも本書が支持する税費改革のために非合法とされたために、地方政府は違法な徴収をせざるを得なくなっているわけである。つまり、中央政府の方針が農民に対する非合法の徴収金を増やす結果になっているのである。本書にはこうした認識が一方にはありながら、この考えが一貫されていない点が惜しいところである。

本書は、税制とはいわば「その国の形」であるということを改めて痛感させられる内容の本であった。(私がこのフレーズで表現しようと意図しているのは、「国」という抽象的な存在があるのではないが、税制とはある法的体系[日本であれば日本国憲法]が施行される社会の様態を反映しながら規定するものであるということである。)

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