アヴェスターにはこう書いている?
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陳桂棣、春桃 『中国農民調査』(その1)

「上層部にはよいことだけを報告し、困った問題は報告しない」という役人のやり方は、だいぶ前から中国では日常的になっていて、いまさら始まったことではなかったのである。(p.35)


本書でしばしば指摘されている中国の行政の問題点の一つ。これは日本の組織でも多かれ少なかれ存在しており、普遍的な現象の一つであるとも言えるが、中国ではこの弊害の度合いがかなり大きいように思われる。

このように嘘ないし隠蔽された報告が多くなる原因は、上司の権力が大きいこと、そして、恣意的な権力行使がどの程度可能かということに依存するように思われる。もっと端的に言えば、強権的な支配体制であればあるほど、都合のよいことだけが報告される傾向が強まると思われる。

私がこの箇所を読んで即座に想起したのは、いわゆる「成果主義」とか「能力主義」と言われるような組織内での評価のあり方である。「成果主義」が採用されるということは、評価される側の人間の処遇を上司がその都度の、比較的短期の業績に基づいて比較的大きな幅で決定する権限が与えられることになるということであるから、人事権や評価の権限を持っている人間の権力が強くなり、相対的に恣意的な権力行使が可能になることを意味する。

実は中国の役人達の世界はかなり「成果主義」であることを考えても、この方式が如何に問題が多いかということがわかるのではなかろうか。

ちなみに、官僚の世界における「成果主義」は、ビジネスの世界における「成果主義」よりも情報流通を一層不適切にする。というのは、ビジネスの世界では上層部が現実とあまりに乖離した情報しか持たない場合、比較的短期間に収益の減少などの影響が及ぶが、政治や行政というのは、効果が通常のビジネスほどの速さでは返ってこないものだし、影響が官僚とは関係が薄いところにしか現れないことも多いからである。



偽ブランドやまがいもの商品が市場にあふれている今日このごろ、報道の信頼度も落ちている。とくに大きな事故のニュースの真実性について、一般の人はかなり割り引いて見ている。(p.48)


例えば中東などと比較すると中国ではまだまだメディアの報道への信頼度が高い(メディアの報道を信じている人が多く、また、信じている度合いが高い)と感じるのだが、それでも、現地の人の感覚からすると、信頼度は落ちているらしい。これは興味深い。



 新聞社の編集室では、毎日発行するニュースのためにいちいち現場まで裏付け調査に行くことはできない。彼らがこの記事を掲載したことに、手続き上の過ちはない。原稿の上には検察機関の印が押してある。それを信用して裏付けをとる必要がないとして掲載したのだ。(p.49)


この辺は、中国の報道機関が共産党の宣伝機関であるという別の本でなされていた議論と通じているように思われる。他の国の報道機関はどのようにしているのか?興味があるところである。



 漢代の桓寛が著した『塩鉄論』には「世に法なきは患わぬ、その法の行われぬことを患う」と書かれている。つまり、社会に法のないこと自体はかならずしも心配に思うことはないが、法の執行がきちんと行われないことが心配だということだ。法がなければ制定すればよい。法があるのに法律どおりに行われないことこそ恐ろしいのである。(p.55)


法をその通りに執行することは当たり前のことのように思うかもしれないが、歴史的に見れば、恐らくそうではないだろう。法がありながらその通りには執行されていないという状態は義務教育などを通して法律が適用される人の多くが文字を読み、法の内容を理解出来なければ、法を執行する側にとって、法を「非人格的≒客観的」に適用しようとする動機付けは生じないからである。



国家は郷鎮政府が郷鎮企業で得た利益と管理費、各種の集金や寄付金、罰金などの収入をみな郷鎮政府の財政の収入としてよいとした。この措置が任意に組織を拡大し、人員を増やし、徴収金や罰金などをむやみに取り立てる行為を許すことになった。(p.120)


公権力の主体に「利益追求(営利活動)」を許すとこのようになるのである。日本の地方政府も次第にこうした中国と似た方向に進みつつあることは警戒されるべきであり、日本ではこの種のことが「地方分権」という名目で行われる制度変更に伴って行われることが多いということは知っておくべきだろう。



 都市住民と農村住民を分ける「二元構造」の最大の問題は、社会を構成する人間が経済的にも文化的にも均等に伸びていくことができないということにある。(p.124)


中国は戸籍制度によって国内での人的移動が制限されることによって、かつての「南北問題」が国内に存在する形になっている。これは一種の「低開発化」である。



分税制導入後、地方の歳入は中央より少なく、歳出は中央の二倍以上になったのである。(p.195)


中国では90年代の半ばに財政面での「地方分権」が行われたわけであり、その結果、地方財政は苦しくなり、地方政府はあからさまな利益追求に走り出し、農民への不法な費用徴収が増えた。日本でも「地方分権」が進めば、これと似た状況が次第に表面化してくるであろう。



 1985年に始まった、郷鎮を主体とする農村での学校設立・運営体制への移行こそが、農民の過剰負担を招いた最も大きく、最も深刻な要因だ。九億の人口を有する中国の農村で、農民たちは義務教育の費用を自分たちの懐から出さなければならなくなったのだ。計画出産政策、民兵訓練、恩給、遺族年金、道路建設の費用なども国家財政から出すべきなのに地方政府に押しつけているので、地方幹部は農家一軒一軒から取り立てているのだ。(p.204)


まさに日本の「地方分権」の議論と同じことが既に中国で行われている。
>例えば、日本での地方分権論議の中で大きな問題になったこととして、義務教育費国庫負担金の問題があった。今から5~6年くらい前に盛んに議論されていたのだが、義務教育費の国庫負担を1/2から1/3にすることで「地方の自主性を高める」などという馬鹿げた議論が展開されていたわけだが、そういうことをするとどうなるかといことは中国の事例からもよくわかるというものだ。

もっとも、日本では地方政府が違法に住民への負担を強いることは難しいため、全く同じような状態になることはないだろうが、それでも90年代後半から00年代前半には法定外税の創設について、地方自治体の間ではそれなりの議論がなされていたし、そのうちには違法だとされたものもある点では同じ現象が起きている。また、違法な取立てができない代わりに財政破綻という形で一般的な行政給付の水準が下がることが予想される。

反面教師として中国政府の政策は極めて参考になるものが多いように思われる。とりわけ、日本の政策が中国に近い方向に進めようとしているだけになおさらである。

そして、銘記すべき点は「地方分権」という言葉で言われていることの多くは「中央政府の財政責任の放棄」でしかない、ということである。有権者諸氏には、このことはよく認識していただきたいものである。


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