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アヴェスターにはこう書いている?
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和田正信 『内モンゴルの草原日記』

 何と、かけ離れた生の姿なのだろう。沙漠に日がな一日羊を追う羊飼い、都会のビルの谷間に忙しく駆けずり回る私たち。・・・(中略)・・・。
 あの時からだ。
 私たちの生の在り様を相対化するものとしての羊飼いの存在を意識し始めたのは。私たちは、誰でも、一度は、羊飼いになったほうがよいと考え始めたのは。(p.13)


都会であくせく働くサラリーマンのあり方を相対化する者としての「羊飼い」という着眼点は興味深い。この著者の考え方自体は80年代頃に流行った管理社会論における都会暮らし、ないし、機械の歯車のように組織の中で働くことへの批判と通じていると思い、それほど目新しいものではないが、その比較の対照項として具体的に「羊飼い」を挙げているところが特徴的である。日本では牧畜は盛んではないので、あまり注目されない対象に着眼したところが目新しく感じられる。

本書全体からは、羊飼いの生活に対して、ややロマンティシズムを感じるが、次の旅先の候補地の一つが内モンゴルなのだが、本書を読んでみて、行ってみようという気持ちはかなり高まったかもしれない。



「一秒」とか「一時間」などという時間が、もともと、あるものなのだろうか?時計が刻み出す「時」というものは、ひとつのフィクションにすぎないのではないだろうか。世界を解釈するひとつの仮説にすぎないのではないだろうか。蒙古の草原に来ると、そのことがよく分かる。ここには、「一秒」も「一分」も「一時間」もない。「時計」という装置が刻む「時」がない。
 ・・・(中略)・・・。
 そうさ、「一秒」なんていう時間は、ついこの間、江戸時代にもなかった。なるほど、「一刻」という時の長さの単位はあった。しかし、それでも、「一刻」という時間の単位は「一秒」とは異なる原理で定められていたではなかったか。確か、日の出から日没までを昼、日没から日の出までを夜として、各々を六等分した時の長さが「一刻」であったはずだ。つまり、「一刻」の長さというものは、同じ一日のなかでも昼と夜とでは違ったし、また季節により、場所により変化して行くものだった。
 ・・・(中略)・・・。
 勿論、これはひとつの例に過ぎない。私たちは、想像力さえ豊かであれば、様々な「時」の姿を想像できるに違いないのだ。そして、それぞれの「時」は、それぞれの世界像を背後に持っているはずなのだ。(p.99-101)


時間に関する哲学的な考察ではある。ニュートン的な時間概念を相対化しようとしていると思われるが、これは先の管理社会批判の文脈からのものであろう。そして、著者が言うように、想像力さえあれば、様々な時間概念を想像できることは確かだろう。

ただ、私の考えでは、こうして時の概念を相対化しても、管理社会での生のあり方、行為のあり方に変更をもたらすことはできない。その意味で、管理社会批判ないし現代社会批判の意図は分かるにせよ、このやり方では成功した批判にはならないであろう。

時間概念の相対化は、ものの見方を豊かにはしてくれるだろうが、システムの作動自体を変えるような力はない。これは視点の移動に過ぎないからである。

では、どのようにすれば、ゆっくりとした時間の中を生きられるのか?「羊飼い」がそのように生きているとすれば、それは恐らく、あくせくと人を動かすシステムとの関係が希薄であり、そのシステムの内部にいる機会が少ないことと関係していると思われる。つまり、彼らは世界システムの辺境部にいるか、別のシステムの内部にいるか、その両方であるか、ということである。彼らの生のあり方そのものではなく、彼らが存在し行為するシステム内の位置が、行為のあり方を循環的に規定しているものと思われる。システムの外に出ようとするか、システムそのものを縮小させるか、ということが問いに対する答えとなるかもしれない。



 羊飼いたちは退屈なんてしない。羊が退屈をしていないように。退屈なのは、時間が余るからだ。草原のどこを探しても、余った時間など落ちてやしない。それもそのはず、時間が余るなどという現象は、おそらく、「時間」に向かって進んでいく者だけに起こることなのだ。同様に、「時間が足りない」ということも、彼らにはないだろう。忙しくない、という意味ではない。羊も追わなければならない。牛の乳も搾らなければならない。冬に備え、草も刈らなければならない。やらねばならぬことは、いくらでもある。それでも、彼らは「時間が足りない」とは思うまい。(p.151-152)


システムの作動のあり方を問題にして上では批判的に書いたが、こちらは内面での感じ方であるがゆえに、筆者の考え方は妥当性が高い。

確かに、時間と実行すべきことのゴールが相対的に明確に設定され、それに対して時間が余ると何をすべきか考え直さなければならなくなり、やらなければならないノルマから解放されているがゆえに、すべきことが見つからない、あるいは思いつかないときに、手持ち無沙汰に感じられ、退屈であると感じる。

締め切りの時間が先にあるのではなく、行為の継起を順に追っていくだけという生活には、退屈ということはない、ということであろう。それはこの直後の筆者の結論からもわかるし、私も同感である。すなわち、

 夕方、女たちは牛の帰りを待って乳絞りを始める……いや、女たちが牛の帰りを、今か今かと、待っているという意味ではない。乳が牛にくっついているから牛が帰ってこなければ搾る乳がない、という順序を言っているだけのことだ……牛が帰ってくる。乳搾りが始まる。左右の手を交互に動かす。乳首を引っ張る。白い乳がブリキのバケツに向かって直線を描く。女たちの手の動きのリズム。シュッシュッシュッシュッ。白い乳が搾り出され、空気に触れる。「時」は、その乳と一緒に生まれてくるものなのだ。

 このように、羊飼いたちは、牛や羊や馬と一緒になって時を紡ぎだしている。そして、自分が紡ぎだした時に生きている。
 「時間が足りない」なんてことが、あるわけがない。

 足りなければ搾ればいいんだ。シュッシュッシュッシュッ、と。(p.152)



先に目的を達成するための目標とされる時間があり、それまでに何かを「しなければならない」という設定によって「時間が足りない」または「時間が余る→退屈だ」という現象が生じる。

私自身、常に時間が足りないと感じているわけだが、その意味では、自分がやろうとしていることとそれに対する設定のあり方を調整することで、この感覚を変えることはできるかもしれない。しかし、目的や目標を設定するならば、「時間が不足しているという感覚」は不可避であるように思われる。時間を区切ることにはプラスの側面もある。ある期間の自分自身の取り組みとそれに対する反省的な評価が行ないやすくなることが私にとっては大きい。そのためのハードルを越えるために時間内に課題をこなすということを続けるわけである。

思うに、この取り組みの中に充実感がるかどうかが重要であるように思われる。充実感が強いときには時間の不足感は強いストレスにはならないし、当然退屈もないからである。そうしたときには目的や目標を設定していても作動が時間を形成しており、二つの時間が調和しているように思われる。

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