アヴェスターにはこう書いている?
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メンガー 『経済学の方法に関する研究』

従って経験的法則だけを示す理論的科学も亦、たとひ斯学によって与へられる認識は完全な確実性をもつのではなくて、只大なり小なりの蓋然性をもつにすぎないとはいへ、人間生活に対して大きな実践的意義をもっている。これに反し現象の歴史的認識や歴史的理解それ自体は一般に斯様な豫見などを提供するものではなく、従って又理論的認識に代り得ない。歴史的認識はむしろ常にそれを基礎として吾々が現象の法則(例えば国民経済の発展法則)を確立することの出切る資料たり得るにすぎない。(p.57)


歴史が経験的事実を確定し、それを資料として理論が構成され、構成された理論が未来への予見を与えることで実践を導くという流れが提示されている。メンガーのこうした考えは、当時のドイツ歴史学派が理論的研究を不当に低く評価することによって、誤った仕方で実践的なインプリケーションを引き出していると考えており、当時の歴史学派の考えを批判し、理論的研究の必要性を訴えることでこの繋がりを確保することが必要であると考えているのかもしれない。

もっとも、本書で述べられていることの基調としては、こうした実践への貢献というよりも、理論経済学の研究も科学として正当なものであるということが前面に出ているため、そちらがメンガーが主たる理由として挙げている物であるが、そうであるがゆえに、それとは異色の指摘が目に留まったのでメモしてみた次第。

もちろん、メンガーのの訴えには、自らの研究とその追随者たちの勢力を拡大するという面もあるということは社会学的には注目すべきだろう。




本書はオーストリア学派の総帥であるカール・メンガーが方法論争Methodenstreitを提起した重要な文献である。

メンガーの問題意識は歴史学派が主流の経済学として存在する中で、歴史学派によって抽象により構成される理論が一面的であるとして退けられてしまっているために、理論経済学の成立が阻まれている状況を打破し、理論経済学にも経験的な個別的なものに対する認識と少なくとも同様の存在意義があることを主張する点にあったと思われる。このほか、上に引用した箇所では歴史的な研究は理論経済学に資料を提供する点で意義があり、理論経済学は実践的な経済政策論や財政学に予見を与えるという関係にあると見ており、現状の歴史学派が理論がいい加減になっているまま実践への主張を行っている点を批判している。

また、社会有機体説を批判して個人が自己利益を追求することから経済現象を説明することを守ろうとし、ここで行為の意図と結果の違い、予期せぬ結果について強調している(第三編)。第四編では理論経済学でも古典派経済学ではこの予期せぬ結果についての認識が欠けており、結果から意志をそのまま読み取って解釈を行う「実用主義」の観点が批判され、それによって古典派経済学をも批判する。また、歴史学派が方法を借用した歴史法学派と歴史学派では批判の対象が異なっており、全く別の考え方に立っているものであり、そこから歴史学派の方法の不当性を指摘しようとしている。

歴史法学派はフランス啓蒙思想の合理主義(理性主義)と(古典派経済学の)「実用主義」(意図と効果に対して無批判的であること)への批判として生じたとされるのに対し、歴史学派は政治学への思弁哲学からの影響を批判するため、政治学の実証性を確保する方法が歴史学に求められたこと(同時に、歴史学も政治的な志向を正当化するために利用された)から由来するとされる。歴史学派が拒否する「理論」は思弁哲学によるものであって、それによって理論経済学の可能性すら否定しかねない議論がなされるのは不当だということをメンガーは言いたいのだと思われる。


ウェーバーとの関係で言うと、方法論としてはほぼ理念型論と同じである。ウェーバーは現実から抽象されて成り立っている概念が一面的であるという点ではメンガーと変わらないが、それが認識の目的というより手段であるという性格を一層明確に打ち出しており、また、概念は実在するものでないという認識論的な立場をより明確に表明している点でメンガーよりも明確化している。メンガーは法則を認識の目的としている点などで、理論によって描かれるものが認識の目的であり、実際に存在するものであるかのように扱うところにやや不明瞭さがあると思われる。また、ウェーバーは抽象が一面化であることを受けて、対象選択の際の観点の選択について彼なりの仕方で言語化している点でメンガーより踏み込んでいる。すなわち、価値理念と価値観点、価値関係などの議論がこれである。

同じことを述べることになるが、本書を読むとウェーバーの理念型論はほぼメンガーの方法論と同じであり、それを継承したものであることが分かる。両者は方法論的個人主義や行為の意図と結果との区別(意図せざる結果)といった論点も共有しており、また、いずれの方法でも抽象を行うことから抽象する対象の選択が問題となり、そこから価値自由についての考察が必要となる。

より大きな思想的文脈について言うと、19世紀のドイツでは歴史主義が非常に流行していたことを感じる。他国よりも歴史主義の傾向が強いとすれば、その理由は当時成立しつつあったドイツという国民国家は小邦分立状態であったため、より一層統合のための神話を必要とし、そのために共通の歴史が求められたためではなかろうか。ヘーゲルやヘルダーなどの歴史哲学、マルクス、歴史学もランケが出ているし、当時の別の流行であるロマン主義も過去に範を求めることが多いがその点で同様だと言える。歴史学派や歴史法学派もこうした流れの中で派生してきた分派であると言えそうである。

これに対して精密自然科学である物理学や生物学、生理学、統計学等の台頭があり、これらに触発された自然科学的な理論も求められるようになってきた。これに対応する形で新古典派が生じてきた。メンガーも自然科学とのアナロジーで自らの理論経済学を語っている。

こうして見ると、方法論争は、ウォーラーステインの言う科学的普遍主義(新古典派)の台頭とオリエンタリズム(歴史学派)の没落であると見ることができる。


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