アヴェスターにはこう書いている?
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ニーチェ 『ニーチェ全集8 悦ばしき知識』(その2)

 法律が物語るところのもの。―― 一民族の刑法を、それが当該民族の性格の表現であるかのように考えて研究するなら、大変な見誤りを犯すこととなる。法の物語るものは、一民族の本質ではなくて、むしろその民族にとっては疎ましく、風変わりで、怪奇で、異国風に思われるところのものである。(p.113)


民族にとって疎ましいものに対して刑罰を与えるというのは、民族という言葉を、「その法が支配し政党であると考えられている社会における社会通念」と置き換えれば、かなり妥当な線を突くことになると思われる。こうして「法律のあり方からその社会の通念を読み取り、さらに当該社会の状況を透かして見る」という作業に可能性があると考えることができる。

この可能性について、もう少し具体的に説明してみよう。

先日、クーリエ・ジャポンという私が愛読している雑誌(3月号)に連載されている森巣博のコラムで、2005年の国連総会で「日本には、人種差別や排外的な発言・行動を規制する法規がない」という報告がなされ、改善が求められたことを知った。もちろん、こうした不都合なことについては国内のメディアでは(ほとんど?)報道されていない。

そのコラムでは石原慎太郎など多くの政治家がレイシズム剥き出しの発言を公的な場で平然となしていることに対し、諸外国であれば「ウルトラ・レイシストとして、塀の内側でカンカン踊り(身体検査のため、素っ裸に剥がれ、両腕を頭の上に上げて脚をばたばたと踏むこと)をやっていなければならない」ようなものであることを指摘し、批判している。つまり、日本国憲法が施行され、それに基づく法律が適用・承認されている社会では、公的な場でレイシズムや排外主義などが跋扈しており、それを罰する規定がないが、その社会では、そうした言論が「疎ましく、風変わりで、怪奇で、異国風」であるとは思われていない、少なくともそうした傾向があると考えられる。

実際、石原慎太郎の「三国人」発言などに見られるレイシズム的な発言に対して、罰せられないだけでなく、世論の反発も小さかったことや、これに類する多くの発言と世論のそれへの反応を考えれば、これを支持する経験的な事実も既に多く存在すると言えるだろう。



 掛け算―― 一人というのはいつも誤謬である、ところが二人になると真理がはじまる。―― 一人では自分が証明できない、ところが二人になるやいなやもう反駁されえないものになる。(p.281)


真理は二人からはじまるというフレーズは、ヤスパースがニーチェを引いてよく使っているものである。ヤスパースの場合、彼の「交わり」の思想において、このフレーズが引用され、私も昔、影響を受けた部分がある。

ただ、ニーチェの言葉はやはり行き過ぎてしまう。「一人というのはいつも誤謬である」というのは言いすぎであろう。敢えてニーチェが使っているフレーズに乗っかって言えば、一人では自分が証明できないとしても、証明できないということは非存在を意味しない。

もっとも、ここで言う真理とは論理的、論証的なものというよりも、自分自身の存在意義ないし存在意義の実感といったことに関わる問題であろう。自分だけでは存在意義が感じられないという点については基本的には正しい。しかし、一人でいる時間、一人で何かをすること、一人で考えることなどが、無意味であるとは言えないとすれば、「いつも誤謬である」というのは言いすぎだとは言える。

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