アヴェスターにはこう書いている?
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アンリ・フォシヨン 『かたちの生命』(その2)

文化的中心から離れた場所にあっては、民衆藝術は旧来のあり方を守り、時の流れを止め、歴史以前の古い語彙を失わない。・・・(中略)・・・。すなわち当時、複雑にして壮大、そして陰影に満ちた大聖堂が、あるひとつの民族〔ゲルマン民族を指す〕を決定的に表現するものとされていた。ところがその民族とは、ゴシックを遅れて知ったのであり、それをぎこちなく模倣したのである。人はゴシックの大聖堂に、森の精を、そして信仰の熱情と結びついた難解な自然主義を見て取ったものだ。こうした考えは、いまだに完全には消え去っていない。各世代が束の間の生命を与えるので、このようなゴシック観は、伝説という色合いを歴史に加える集合的な神話が持つのと同じ、周期性を備えているのである。われわれが進めてゆこうとしているかたちの観察こそは、この借り物に基づく詩学を、本末転倒の綱領を打ち倒す。そして、それらにとっての完膚なきまでの反証を突きつけるような、実証可能な論理を明るみに出すのである。(p.168-169)


前段の文化的中心から離れた場所でこそ旧来のあり方が守られるという説は、しばしば語られるものだが、かなり有効な図式であると思う。例えば、日本語の漢字の読み方に唐代の中国の漢字の読み方が現代の中国語よりもよく残っているというのを漢詩の解説書を読む中で読んだことがあるが、それもこうした文化的伝承のパターンと合致している。

また、19世紀のゴシックリバイバルの頃、ゴシックがゲルマン民族の精神を表わすものと考えられ、それとの関連で「森の精」を見るという見方がなされたというのも興味深い。というのは、現代日本の容易に手に入るゴシック入門書の中で日本の著者(政治的には右翼的であり保守的な傾向の人らしい)が、確か、これと同様の見解を述べていたという記憶があるからである(酒井健『ゴシックとは何か』)。日本のナショナリストがゴシック建築を媒介として19世紀の国民国家形成期のナショナリズムに共鳴しているのをそこに見いだすことができるわけだが、そうした見方に対してフォシヨンはかなり強い姿勢で批判しようとしていることが見て取れる。

本書の解説で知ったことだが、フォシヨンは政治的な問題にもコミットしてきた人で、あえてアメリカ的な対立図式(ナショナリズム対コスモポリタニズム)で言えば、コスモポリタニズムに近い立場だったらしい。そのような知識を持って見直すと、フォシヨンの「かたち」を重視する方法論にはある種の普遍主義が息づいていることがよく見えてくるし、それが民族主義的な見解を批判しようとするのはもっともだと思える。

こうしたことに気づくと、フォシヨンの方法論についてもう少し学んでみたいという気になってきた。



英国のゴシックは、長らくノルマンディー藝術の量塊の概念に忠実であった。ところが一方、曲線の発展においては、イギリス・ゴシックはすみやかに先回りしているのであり、こうしてこの建築は、ある同じ時点において、先進的であると同時に保守的でもあるのである。
 同様のことは、ドイツ建築の緩慢な発展についても指摘することができる。フランスで一世紀半にわたって、ロマネスク藝術のアルカイックな形体から、ゴシック藝術の完成された形体に至る数々の試行が続いていた頃、一方ではオットー朝の藝術が、相変わらずカロリング朝の藝術から脱け出しておらず、他方ではライン川流域のロマネスク藝術が浸透を続けているのである。そしてこのロマネスク美術は、交差リブを受け入れたときでさえ、自らの特質を保持しているのである。
 この場合に発展を遅らせるブレーキとして働いているのは、一民族、一国民の天分ではない。ブレーキをかけたのは、先例が持つ重みである。それは政治的伝統と結びついており、そしてこの伝統もまた、近代ドイツの体制を築いた人々によって異教の、つまり先史時代のゲルマニアに押しつけられたかたちであった(p.172-173)


「先例が持つ重み」という概念は大変興味深く、利用価値があるように思われる。

ここでのフォシヨンの叙述は単線的発展段階論を前提にしているような向きがあり、必ずしも適切ではない書き方の部分もあるが、変化の様子はよく見て取れる。伝播のルートの通りやすさや職人組織の影響範囲など、流通性の程度が様式の展開を説明する上ではかなり重要だと思われるが、それだけでなく、「先例が持つ重み」という概念を設定することによって、文化や政治や宗教の影響をそこに見て取りやすくなり、また、それらの実証しにくい影響関係を具体化する際の「観念的足がかり」にできそうである。つまり、流通史観の平板化を避ける際に、補助的な概念として導入できそうだ、ということ。

もちろん、こうした概念を主体においてしまうと、実証性のない観念的な(精神論のような)歴史叙述(右翼や「保守的」な思想の人々がよく口走るような)が現れることになるので私は採用しない。



「手を讃えて」より。

 木を切り、金属を打ち、土を捏ね、石塊を削る藝術家は、人類の過去を、つまりそれなくしては今日のわれわれも存在しない、古代人たることを受け継いでいるのである。この機械時代に生きるわれわれのただ中に、手に生きた時代の疲れを知らぬ生き残りがすっくと立っているのを見るのは、なんと素晴らしいことだろう。(p.210)


この件やそのすぐ前に展開される道具論など、手仕事を讃えるフォシヨンの議論を読んで、即座に私の念頭に浮かんだのはハイデガーであった。

概ね同時代人のこの二人に見られるこの共通したテーマと価値観は、20世紀半ば頃の「機械時代」への批判・不満というZeitgeistを背景にしているのではなかろうか。こうした批判や不満は、60年代以前まである程度の勢いがあったマルクス主義の「人間疎外」の概念やそれへの対抗勢力として存在した実存主義の流行といったこととも深く関わっているように思われる。(ちなみに、解説を見てみると、解説者はフォシヨンのこうした言説について、メルロ・ポンティとの類似性を見て取っているようである。)



「石の言葉」より。

 人間の手が触れたものはすべて、彼の暖かみ、その命の何がしかを受け取る。人間の仕事の結果たるものはみな、精神となる。都市における聖堂や城、宮殿、住居、そしてその向こう、野原と川の合間に赤褐色の毛並みを見せてうずくまっている動物のように見える風車。これらは過去の証人であると同時に、不滅の生者でもある。(p.239)


詩的な表現だが、言われてみれば確かに実感としてそのように感じられることがある。フォシヨンの「かたち」の概念が物質と精神の間であったことを思えば、作品は単なる物質ではなく、精神性を帯びているのであり、そのことをより端的に示したものとみることができる。

例えば、旅行などで歴史的な遺跡などを訪ねようとする人々は、こうした「精神」を感じようとして訪ねている人が多いのではなかろうか。歴史にロマンを見いだしているような人々はこうした傾向があるように思われる。

私はあまりロマンを抱いて遺跡を見に行くことはない。しかし、建築については、単に観察するのではなく「体感すること」が重要だと私は考えており、それはある意味では、こうした作者の精神との交流なのかもしれない。

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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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丹念にお読みいただき、ありがとうございます。
【2010/05/28 13:09】 URL | 訳者 #- [ 編集]


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