アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

アンリ・フォシヨン 『かたちの生命』(その1)

(前略)・・・、ロマン主義的バロックが中世藝術のうちに慈しんだもの、それはフランボワイヤン様式、すなわちゴシックにおけるバロック的形体だったのである。(p.50-51)


フラインボワイヤン様式を「ゴシックにおけるバロック的形体」と呼ぶのはかなり的確な表現だと感じられる。装飾的で曲線的な形体。



 それは、もし比例というものが量塊の決定に必要だとしても、それで十分ではないということである。一個の量塊は、付加的な部分や開口部、そして効果を程度の差はあれ持っている。きわめて簡素な壁体に還元されるとき、それは厳とした安定性を獲得し、基礎に強く荷重をかけ、そしてわれわれの目には中身の詰まった固体として現れる。光はそれを均一に、一挙に照らす。反対に、複雑な光は壁体を揺るがし危うくする。また、純粋に装飾的なかたちの複雑さは、壁体の平滑さを乱し、ぐらつかせる。この場合、光は散乱せずに壁体に当たることがない。この絶え間ない変化において、建築は身動きし、揺らめき、解体する。建築物の切れ目なく続く完全な全体にのしかかる空間は、その建築と同様に不動である。量塊に穿たれた開口部に侵入してゆき、そうした奥行きが増大するに任せる空間は、動的な空間である。その例は、フランボワイヤン藝術〔図⑭〕やバロック藝術に見るがよい。そこでは動的な建築が風と焔と光の性質を帯び、流体と化した空間の中で身をよじる。カロリング朝の美術において、あるいはロマネスク美術でも、確たる量塊からなる建築は、塊としての〔マッシフな〕空間を形成する。(p.68-69)


表現に厳密さを求めるとこの記述には多少の問題がある。しかし、詩的な表現ではあるものの、指示内容は明確に見てとることができる。すなわち、こうした「動的な空間」は客観的な対象・素材自体が動くのではなく、それを見るものとの関わりの中で、見る者の感覚を動かすのである。

私の場合、建築を鑑賞する際の最大のポイントはその建築を「体感すること」であると考える。その重要性はこうした「動的な空間」のような形での建築からの働きかけに対して敏感になることによって、こうした動きを楽しむことができるからであり、そうした心がけないし姿勢を持って建築と接する経験を重ねることによって、自分自身の感覚が研ぎ澄まされていくからである。



もしかたちの生命の活動、明快な構造の執拗な定式化、新たな空間創造への意欲がなければ、これらの身廊の驚くべき高さをあえて要求したものはなかっただろう。光はそこで、生気のない材料としてではなく、生命の一要素として取り扱われており、事物の変貌の過程に参画し、それを手助けしうるものとされている。光は単に建築内部の量塊を照らし出すのではなく、建築と協力して、それにかたちを与える。光は、それ自体がかたちである。なぜなら決められた箇所から湧き出したこれらの光の束は、縮減され、か細くなり、また張り詰めた光となるが、それは程度の差はあれまとまりを持った、フィレ〔円柱などに彫られた溝の間の平坦な部分〕で隅取られていたりいなかったりする内部構造の諸部分を、穏やかに見せたり活発にしたりするために照らすのだから〔図⑮〕。光はかたちである。(p.72)


ゴシック様式の教会堂の身廊を例にとって、「光は、それ自体がかたちである」ということについて述べた箇所。

フォシヨンにおける「かたち」は、日常言語で使われる「形」という語が示すものとは異なる指示対象を示している。それは単なる外部の限界をなすものではない。そのことは、フォシヨンが「藝術作品とは空間に手を加えること、つまりかたちであり」(p.9)と述べており、こうした発言が本書の中でも繰り返されていることからも明らかである。客体としての物質だけでなく、それに主体として働きかける人間の制作行為、認識における人間の主観の側における働きかけ(ないしリアクション)といったものと客観的な形体との接するところにある、精神と物質の中間とでもいうべきものとして「かたち」は設定されている。(ただ、フォシヨンの捉え方は主観と客観という図式を引きずりすぎているために、私自身の考え方の中に「かたち」を正確に位置付けることは難しい。)

それを踏まえたうえで、「光は、それ自体がかたちである」というのは名言である。光はそのエネルギー(物質)として存在しながら、それが「光」である以上は主観によって認識されている。その意味で、フォシヨンの言う「かたち」と確かに共通であり、また、視覚認識の作用は光なしにはありえないことを考えるとまさに的を射ているとも言える。



その規則とは、藝術作品の素材とは交換不能だということであり、つまりはかたちというものが、ある素材から他のそれへと移し替えられることによって、変容をこうむるということである。となると、この点がある技術の他への影響という問題の過大視を批判しつつ、ロマネスク時代における大規模彫刻と工藝美術の関連を取り上げるとき、われわれに示唆を与えてくれた。壁面を装飾しようとする藝術家によって写された象牙細工やミニアチュールは、別な世界に入っていくのであり、その世界の法則に従わねばならない。・・・(中略)・・・。こうした考察は、さらに拡大することができるのだが、このように考えることによって、唯一無二の存在としての藝術作品という定義が可能になる。(p.109-110、本文傍点部は下線を付した。)


芸術作品における素材の重要性についてのフォシヨンの説は興味深かった点の一つ。私自身の芸術作品、特に建築物を鑑賞してきた体験とも合致することが多い。



一個の立体が、大理石でできているか、ブロンズか、それとも木材なのかによって、あるいはそれが、デトランプで描かれているのか油彩なのか、ビュランで彫られているのかリトグラフかによって違うことがありうるというのは、不思議ではなかろうか。(p.112)


前の引用文と同じことが繰り返されている。

この件から想起されたのは、私が初めてゴシックの教会堂(ロンドンのウェストミンスター修道院)を目にした際に衝撃を受けたことである。石(大理石?)という素材であることが、ファサードから受ける印象を強いものにしていた。あれがコンクリートであったら印象は全く違っていたことだろうと思う。

スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/505-851db101
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)