アヴェスターにはこう書いている?
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佐々木瑞枝 『外国語としての日本語』

 忘れてならないのは、単に文型の指導をしただけでは、日本語を教えたことにはならないということだ。それを実際のコミュニケーションの場で使えるように指導すること、それも、外国人学習者が自発的に会話できるような場面を教室の中で作り出す必要がある。
 語学とは単に暗記と繰り返しで頭の中にたたきこむものではなく、もっと創造的なものだ。機械的な練習を繰り返していただけでは、イン・プットはできてもアウト・プットができず、勇気を持って日本人と会話ができる学習者は育たない。文法は大事だが、文法万能主義に陥らないこと、これは私も含めて語学を教える全ての教師が、常に念頭においておくべきことだと思う。(p.62-63)


このあたりは、先日台湾から日本に来た旅行者の方と話していたときに感じたことと合致する。私が台湾の方々とブロークン・チャイニーズで話をしていたのだが、それを傍で聞いていた第二外国語として中国語を勉強していた大学生はしばらくの間、会話に入ってくることができなかった。その人曰く、「話は聞いていて分かるけれども、話そうとすると中国語が出てこない」から入れなかったという。正しい文法を気にしすぎると、このようになりがちだ。

会話というものは、まずは話そうとする動機となるものがあるかどうかが重要で、伝えよう・わかろうとするモチベーションがそのコアになければ、なかなか伝わらない。(これは日本語を母語とする者同士の会話でも同じだ。)

外国語で細部を正確に伝えるためには(完全にその言語を体得するまでは)文法は確かに必要となるが、それは内容ではなく形式にすぎない。しかし、外国語学習の場ではどうしても形式の正しさが重視されがちになる。私も実際、中国語を少し勉強してみて、教室ではかえって中国語が出てきにくいという実感がある。現場で中国語話者と対峙しているときの「必死さ」(?)が教室では消えてしまい、変わりに正しい文法や正しい発音や正しいアクセントが「要求されてしまう」からである。

もちろん、こうした形式面も重要であることは間違いない。私の経験に照らしても、発音やアクセントをある程度正しくしただけで、かなり通じる率が高くなったのは確かである。

だから、語学では実践的な練習が重要で、実際の場面を(想像上でではなく、「現場で」)設定して練習してはどうかと思う今日この頃である。



 日本が台湾などで植民地政策をとった際、日本人は現地の人々に対して敬語で接することがあったのだろうか。私が台湾の日本語教育関係者に会ったとき、植民地時代に日本語を覚えたというある先生から、こういう話を聞かされた。
 「我々が耳から覚えた日本語は『こっちへ来い』『早く行け』『何の用だ』といった命令調のものでしたからね。日本語とはそういうものだと思いましたよ。それで同じことを日本人に言ったらひどくなぐられましてね。私には理由がさっぱりわからなかった。今なら、相手によって『こちらにおいでください』『こっちに来てください』『こっちに来て』など使い分けられますが……。『こっちに来い』はさすがに使えませんね」
 まさに赤面の至りだ。戦後はまだ終わっていない。こんな言葉の世界にも、日本が戦争で侵した傷痕が残っている。(p.175-176)


戦争や歴史問題を主題にしたものではない本であるからこそ、こうしたエピソードは重要であると思われる。

すべての「日本人」(なる者)がこのような振る舞いをしたわけではないだろう。しかし、力関係などから考えてこのような振る舞いが多かった(大部分であった)であろうことは想像に難くない。

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