アヴェスターにはこう書いている?
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鈴木謙介 『サブカル・ニッポンの新自由主義――既得権批判が若者を追い込む』(その1)

 要するに、昨今の自民党政治に対する批判には「改革を止めろ」というものと「もっと改革せよ」というものが相乗りしているのである。注意しなければならないのは、主張の内容は全く反対方向を向いているにもかかわらず、両者が同じ対象を批判しているということだ。なぜそのようなことが可能になるのか。それは、いずれの立場も、より平等な社会を作るために、現在の状況を批判せねばならないと考えているからだ。

既得権批判の構造

 なぜ矛盾する二つの主張が、同じ同期に基づいて、同じ対象を批判できるのだろうか。そのことを理解するためには、なぜ小泉改革が必要とされ、支持されたのかを思い起こさなければならない。彼が「抵抗勢力」と呼んだのは、改革に反対するすべての勢力であり、具体的には郵政関連団体や公務員、族議員、野党などがそこに含まれていた。彼らが有している既得権を解放することで、国民の下にその利権を回すことができる、というのが、そこでの主張の中心だったのだ。
 ・・・(中略)・・・。
 既得権批判の中心には、景気が停滞し、多くの人々が苦しい状況に置かれているにもかかわらず、以前と変わらない立場を守られている人々がいることへの不満がある。彼らが不当に保持している権益を、国民の下に還元しなければならない。そうした認識に基づいて、一連の「改革」は支持されていたのだった。
 ・・・(中略)・・・。
 そのため、ロジックとしての「既得権批判」は、自らが不利益を被っているのは、不当に権益を保持している人間がいるせいだ、と言えばあらゆる場面で成立することになる。(p.18-20、本文傍点部は下線を付した)


同意見である。

「既得権」に対する非難という点で、「反新自由主義≒左派・リベラル」的な立論も、新自由主義≒経済右派・市場原理主義」的な立論も共通している。私見では両者が間違っているのは、①「既得権」をもっているとされている人々が本当に「既得権」と呼べるものをもっているのかどうかが疑問である場合が多いこと、②「既得権」を持っている人々からその利権を奪いとった場合、それが他の人々により平等に分配されるという保障はない――むしろ、「既得権」を持つ者が変わるだけであり、その際、一般的に言って、既に有利な立場にいる者ほど「解放された既得権」から多くの権益を得られる(ゆえに、行使可能な権力・利権にマタイ効果[富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる]が働いてしまう)――のに、両者はいずれもそれを見据えていないということ、であると考える。

特に二点目(「利権」が解放された場合、その「利権」は平等に分配されることはなく、政治的・経済的・社会的な権力に富む者をますます富ませること)は、極めて当然の認識だと考えるが、それが世間の常識になっていない面が強い。

「利権」が解放された場合、その「利権」は平等に分配されることはなく、政治的・経済的・社会的な権力に富む者をますます富ませる(※)ということは、冷静に考えれば(客観的に、ないしメタ認知を働かせて考えれば)大抵の人には理解できることだと思われるが、「多くの人々が苦しい状況に置かれているにもかかわらず、以前と変わらない立場を守られている人々がいることへの不満」というネガティブな情念によって駆動されているため、「(自分たちのおかれた状態をよくすることではなく)他人の足を引っ張ること」というネガティブな言動として発露してしまうためだと言えよう。

※ 複雑ネットワーク研究の用語を用いれば、既得権を非難する「反新自由主義型」の議論も「新自由主義型」の議論も、いずれも各ノードが平等にリンクを張るランダムグラフのような関係を前提した上で、それぞれの「平等」を理想としていると言える。しかし、人間の社会は、ランダムグラフよりもスモールワールドやスケールフリーなどの特性を持つネットワークが多く存在しているとすれば、人間社会におけるノード(個人)がランダムネグラフのようなつながり方になる可能性は限りなく低いと見做さざるを得ないのではないか、と私は考える。(なお、両者の論者が「ランダムグラフ」を想定しない場合でも、それに類するものが暗に前提されていると私には思われる。)




「既得権」を問題視し、非難する議論は、「既得権」を持つとみなされる人々の足を引っ張ろうとすることによって「より平等」な社会を主観的には目指すものだが、客観的にはより不平等な社会を実現していく、という構図がそこには存在する。それはリベラルや左派の議論であっても同じであり、この種の「既得権」非難のうち、悪質なものの筆頭は「公務員バッシング」や「増税しても『政官財癒着』のために浪費されて『国民』には還元されないから増税に反対だ(その前に徹底的な歳出削減ないし「無駄」の削減が必要だ)」とする類の「増税忌避論」ないし「無駄をなくせ論」である。(だからこそ、私は論理的に見れば「カス」としか言えない程度の議論であっても、しばしばメインブログなどで取り上げて批判を行ってきたつもりである。)



さて、話は変わるが、上記の引用文を読んだ際、私にとって明確になった点は「ロジックとしての「既得権批判」は、自らが不利益を被っているのは、不当に権益を保持している人間がいるせいだ、と言えばあらゆる場面で成立する」という指摘である。

そして、この点から見ると、「既得権批判」は、いわゆる「陰謀論」と同型の議論だということになるということである。いわゆる陰謀論との違いは、意図的に「悪」を働いている人がいるとみなされるか、結果的に(意図に関わらない状態として)「悪」をなしている人がいるとみなされるか、という違いにすぎない。いずれも「悪者」さえ設定してしまえば常に成り立つ「形而上学的研究プログラム(metaphysicl research program)」であると言って差し支えないだろう。


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