アヴェスターにはこう書いている?
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陣内秀信 『東京の空間人類学』(その2)

 江戸時代に描かれた名所図会や浮世絵を見ると、<景>を巧みに修めるということが日本人独特の才覚としてはっきり現れているように思われる。そのなかで建物の占める役割を考えるならば、建物一棟だけがシンボリックに描かれるといことはほとんどなく、むしろそのまわりの町並みや自然的な要素、例えば都市部では掘割、海などの水面、ちょっと郊外に行くと山並み、丘、雑木林などといっしょになって、まわりの複合的な環境とともに建築の存在もとらえられている。全体としての景を巧みに一つの構図に収め、まとまりのある世界が描かれている。近代的な意味での建築家という存在もそこにはなく、建築も環境を構成していくおさまりのいい存在だったと思われる。それに対し、明治の名所案内には、文明開化のシンボルである大きな建物そのものを堂々と描いているものが多い。文明開化の好奇心をそそる存在として、公共建築、学校建築、さまざまな世俗建築が、こんどは都市の名所になった。つまり社寺や水辺の盛り場にかわって近代建築が名所になったのである。建築自体が市民に愛着をもたれ、絵の主要なテーマにもなってきたのである。
 だが一方で、景を修めるなかで建物をつくるという伝統的な意識は次第に失われていくことになった。巨視的に見るならば、現代東京の個々にはすぐれた建築も少なくないが、都市全体としてはちぐはぐで何ともまとまりがないというアンバランスな状況も、実はこの明治初期の動きのなかにすでに先取りされていたようにさえ思える。(p.207-208)


興味深い対比。中国の山水画なども<景>を修めるというパターンに該当するように思われる。



 これらの傑出した城郭風の塔屋に次いで、明治の東京には西欧から輸入した時計を用いて、数多くの<時計塔>が登場した。初田亨氏の指摘するように、前述の城郭風の塔屋をもつ建物はむしろ物見としての性格をもったのに対し、これらの時計塔は「天にたなびく」上昇性の強い、下から仰ぎみる、より西欧的な塔の性格を確かにもっていた。しかし、建物全体の中での塔のとりつき方、あるいは都市の中での塔の配置などからすると、いかにも異文化の要素を別の文脈のなかに移し植えたときに生まれる独自なデザイン、空間構成を生み出したのである。
 当時の時計塔は、その用いられ方、配置構成などから次の二つに大別できる。まず、軍事施設、官庁、大学、学校など、公共的建築にしばしば時計塔が用いられた。前田愛氏はその理由として、兵営と学校と官庁とが、明治のもっとも早い段階で定時法にそくした規律を要請された社会集団であったことをあげている。だが西欧都市でも、中世以来、鐘楼や時計塔をもち市民に時を告げるのはもっぱらこれらの公共建造物に集中していたのであって、明治の東京でもまずこういった建物に時計塔が多用されたのはごく自然だった。(p.210-211)


確かに古い公共建築には時計塔があるものが結構ある。札幌で言えば、北大農学部にもあったし、札幌の時計台などもこうした時計塔の一つなのではないだろうか。

こうした知識を沢山持っていると街歩きが楽しくなりそうだ。

ちなみに、明治時代の時計塔のもう一つのタイプは、町人地の流れを汲む市街地の民間の建物に登場したもので、その多くは店の宣伝のために塔を載せた時計屋であった。



 このような近代の屋敷構えをもつ公共建築の考え方は、役所ばかりか大学にも全く同様に導入された。<門>から伸びる<軸線>の上に<左右対称>の建物を置く、という明快で象徴的な構成は、神田錦町に登場した学習院(図89)や本郷の東大医学部をはじめ、大学建築を設計する上での定石となった。そして立身出世の象徴として学校建築によく使われた時計塔がここでも中央に晴れがましくそびえ、モニュメンタルな構成をいっそう効果的なものにしている。しかし、すでに見たように、こうして登場した<時計塔>は、都市の公共空間に開かれたシンボルとして立つ西欧のそれとは全く異なり、東京では個々の敷地の奥に独立して置かれるという形をとり、自己完結的な性格を強くもっていたのである。それだけいっそう、おごそかで格調の高い雰囲気を生み出していたともいえよう。
 ・・・(中略)・・・。
 また、人力車そして馬車によるアプローチのための馬車回し(ロータリー)が門と玄関の間に置かれるようになると、軸線の視覚的効果は弱まることになったが、そこに植えられた樹木の奥に建物の正面が見え隠れするといった構図は、日本人の感覚にはむしろふさわしいものだったと思われる。(p.240-245)


ここで大学建築の定石とされている構成は、見事なまでに上述の北海道大学の正門から農学部に至る部分の構成と一致している。正門と農学部の間にロータリーがあり、ロータリーから農学部の間には道の両端に並木があるのである。



 明治の国家のデザインから大正・昭和初期の市民のための町づくりへと変遷するなかで、都市のシンボリックな空間として注目されたのが<広場>であった。すでに述べたように大正年間に西欧の広場の考え方が紹介され、日本の都市においてもその必要性が説かれていた。
 実際の都市のなかに定着したのは震災復興事業においてであった。しかし、いわゆる西欧都市にみられるような象徴的な広場は結局のところ日本には実現せず、もっぱら「交通広場」の範疇に入るものが東京に登場することになったのである。まずその第一が橋詰広場であった。
 しかし大正・昭和初期は、東京にとって、都市構造や交通の体系の上でのまさに過渡期にあたっていた。市電、自動車、乗合バス、そして鉄道の発達によって<水>から<陸>への転換がおこり、都市空間のあり方に大きな影響を与えたのである。こうして、水に面した橋詰ばかりか、陸の側にも新しい町の顔となる都市空間が生まれた。それがすなわち「交差点広場」である。(p.273)


大変興味深い指摘。これもまた、町歩きを楽しくする知識だといえる。



 都市論、とりわけ、東京論が広く論じられるようになったのは、70年代から80年代にかけて、いわゆるポスト・モダンと呼ばれる時代になってからである。国家論やイデオロギー論が次第に力を失ってきたことと対応している。都市や東京といった新しい概念のほうが、現代社会や現代生活を考えるときに、有効になってきたのである。(p.324)


これは河本三郎氏による文庫版への解説からの引用である。

このあたりの関係はさらに深く考えてみたいところである。

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