アヴェスターにはこう書いている?
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茂木健一郎 『思考の補助線』(その2)

一方、「仮想」は、異なる感覚のモダリティにまたがる一致を持たない。目を閉じて、創造の世界のさまざまなイメージを楽しむことはできるが、それらの空想の世界の住人は、複数のモダリティの合致によっては支えられていない。むしろ、そのような一貫性が見られないからこそ、仮想は自由なダイナミクスを持つことができるのである。
 「仮想の自由」の中に、高度な文化を生み出す人間の精神の可能性も、またときに悲劇をもたらす脆弱さもある。そう考えれば、仮想と現実の交錯に緊張感を持って向かい合わなければならないのは、何も青少年だけではない。自らは「現実」という「安全圏」にいると思いこんでしまうことは、人間らしい生命の躍動から離れてしまう精神の惰眠への道である。(p.90)


「仮想」と「現実」についてよく言われる「現実」の立場からの「仮想」への非難に対する批判。



 「差別」や「平等」という言い方は、一種の序列構造を前提にしている。・・・(中略)・・・。
 「差異は上下という関係に写像される」という世界観の下では、できるだけその差異を隠蔽して、均質なものとみなそうという動機づけが生まれる。そこに立ち現れるのは、世界がお互いに比較などできない多様なものによって構成されているという豊潤さへの感謝ではなく、むしろすべてを中央集権的に価値づけようという「神の視点」につながる野望である。・・・(中略)・・・。
 差別語とされる言葉をことさらに使う人は品性下劣であるが(特に相手が嫌がる場合には、あえてそのような言葉を使う必要はないと思う)、その一方で思想警察のごとき極端な「差別語狩り」には、以前から違和感を持っていた。その根本的な理由は、以上述べたような、差異をことさらに隠蔽しようとする思想の背後にある、画一的なメンタリティにある。(p.98-102)


これはどちらかというと左派やリベラルの側に対する批判だと言えよう。

茂木の言うように、「差別」や「平等」の概念には比較可能性が前提されているから、当然、ある基準に基づく序列構造を前提している。「差別語」が「差別語」である限りは、「差別」があることを前提とするから、序列構造を前提せざるを得ない。

その上で茂木の議論に対して一つの可能性を提示するとすれば、ここで「差別語狩り」と呼ばれている差別語批判をしている論者は、「差別語」を「差別語」としては考えていないとしても、社会的な通念としては一般にそこで前提される序列が想像されていると想定でき、差別語を用いることによってその差別が正当化されるようなことになれば、社会的に望ましくない効果が生じると考えられる場合に批判が行われるということは十分ありうる話であって、その場合の批判者のメンタリティは茂木が言う「画一的なメンタリティ」とは異なっていると思われる。

まぁ、茂木が言っているのは「極端な」ものについてだから、そうした人には確かに「画一的なメンタリティ」がこびりついている傾向があるとは思うが、むしろ、そうしたメンタリティないし価値観から脱け出そうとして格闘している最中の人が、比較的極端な「差別語狩り」をする傾向があるように思われる。それはその人自身が頭の中で常に格闘している敵であるため、他の人からその言葉が発せられた場合に、自分の頭の中での闘争を自分の外にも持ち出してしまうからであると思われる。

例えば、私の友人でナショナリズム批判に目覚めた人がいたが、彼は自分自身の中にあるナショナリズムやファシズム的な価値観を否定する闘争をしている間、「国家」とか強権的な政治手法などに対して過激なまでに強く反応して批判していたという事例がある。



しかし、思想運動を、それにまつわる心情においてとらえたとき、特に日本においては、いわゆる「ポスト・モダン」という言葉でくくられた言説には、「どうせ全体など引き受けられない」という事態を前にした、ヤケクソの気分が強かったのではないか。フザケ、フマジメ、脱構築という心の動きは、スパイスとしてはどんな思考者にも必要なことではあるが、それをメインディッシュにされてしまったのではたまったものではないと感じるのは、私だけだろうか。(p.152)


ポストモダンと言われる思想にはどこか浮き足立ったところがあった。しばしば、それはバブル経済との相関が言われたりもする。そうした側面はあっただろうが、60年代頃までの学問に存在した、比較的確固としたパラダイムが次々と崩れていったことに対して、どのように対処してよいのか分からないという茫然自失状態を背景として、新たなパラダイムを探すために知見よりも、華やかな言葉を探してしまった、それに出版業界や論文書きのような人たちがひきつけられたという面が大きいのではないだろうか。もちろん、こうして出版業界などが乗ってくる背景には経済の好調さというものはあっただろうが。

茂木の言うヤケクソの気分は、知見ではなく言葉を探してしまったということを心理的に解釈するとかなり近いところを突いたことになるような気がする。



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