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アヴェスターにはこう書いている?
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E.ル・ロワ・ラデュリ 『ラングドックの歴史』

山地と低地では文化の発展に差があるということこそ、根本的な特徴なのである。二つのナルボネンシスが存在するというわけだ。ひとつは、小麦が獲れ、ブドウとオリーヴの木が茂り、人びとが快適な生活を送る大きな町のあるそれであり、もうひとつは、ライムギや栗の木を栽培し、極貧の状況にしばしば陥る高地部のそれである。これらを分ける目に見えない等高線こそ、未開と文明を分ける境界のようなものであった。(p.24、強調は引用者)



この高地と低地という相対的な区分はラングドック地方を考える上で重要な区分であろう。山が多い地域でも、人が通りやすい谷では交易などが活発に行われたようだが、そうでない山地は相当に寂れていただろうと予想できる。低地は地中海世界の一部として、それなりの地位を占めることができただろう。イベリア半島とイタリア半島の中継点としての位置づけも可能であろう。

ところで、この地方には絶えず分散化の傾向が見られ、地方統一化を断固実現しようとする政策と衝突することはなかった。統一を実現するだけの力を唯一もっていた歴代のトゥールーズ伯は、このような実質的な現実よりも十字軍遠征や異教徒との戦争という幻想を好んだのである。南フランス出身の騎士たちを率いて聖地へと発ったレイモン四世は、自分の領地にはけっして戻らないことを誓った。そして事実、彼はオリエントで1105年に没する。さらに、彼の息子ベルトランも、そしてヨルダン川の水で洗礼を受けた彼の孫アルフォンスも同じように十字軍遠征に参加し、二人ともパレスチナで没した。そのうえ歴代トゥールーズ伯は、たまに領国内にいるときでさえ、首都を行政の中心と考えなかった。所を変えて移動する彼らの大法官府(シャンセルリ)は、あるときはニーム、あるときはサン・ジル、あるいはメルグイユのような単なる村落にさえも一時的に設置された。パリではあれほど早くから現れた中央集権化の使命に相当するものは、トゥールーズでは見当たらないのである(P・ヴォルフ)。(p.36)


このように中央集権化の志向が欠如していた理由は何だろうか?当時の交通・通信技術と地形との関係はその要因の一角を形成していそうだとは想像できる。この地域で中央集権化することは、むしろ行政・統治のコストが高くつくだろうし、軍事的にも少人数の都市が自らを防御するのに適した土地だったとも想像できる。その意味で領主による統一的支配の必要性は低かったのかもしれない。ただ、「中央集権化」という傾向自体は普遍的なものではなく、時間的にも空間的にも特殊なものだと考えることもできる。その意味では、この地域だけに特別な状況とはいえないかもしれない。例えば、イタリア半島にも統一的な権力はなかったはず。

このように書いたら、少し後にはこんな記述があった。

細分化されたこのラングドック地方が辿っていった運命には、多くの特徴からいってすぐ近くのイタリアのそれを思わせるものがある。政治的に統一されていなかったにもかかわらず、都市の躍進とともに文化がこの地方で事実、目覚しく発達をしたからである。ひとつの文学語が南部のロマンス語方言から形成された。それがオック語(langue d'oc)であって、中央山塊の北部で使われていたオイル語とは、両方とも共通してラテン語起源の言語であるにもかかわらず、非常に異なっていた。オック語は完全には統一言語とはならなかったが、それでもラングドック地方をはるかに越えてカタロニア、プロヴァンス地方、そしてガスコーニュ地方まで、さらに北はリムーザン地方、オーヴェルニュ地方、そしてドーフィネ地方まで拡がる広大な文化共同体を誕生させた。トゥルバドゥールの抒情詩や風刺詩がいまに伝えられているのはこの言語によってである。(p.37-38)



政治的に統一されていなかったことと文化が目覚しく発展したこととは、「にもかかわらず」で接続するようなことではなく、その点には違和感がある。

北フランスがラングドック地方において政治上優位に立つようになって以来、概して北フランスとの商取引は増大していった。・・・(中略)・・・しかしながら、大きな商取引の基礎は、依然としてレヴァント地方との貿易にあった。(p.53)


これは13世紀頃についての記述だが、興味深い事実を示している。つまり、この時代には経済的に巨大な力を持っていたレヴァントとラングドック地方は大規模な交易があり、ラングドックを通じて、それが北フランスへと連結されたと見ることができるからである。

そして、大西洋方面に世界交易の中心が移動していくにつれて、ラングドックは取り残され「低開発化」される傾向を示すのである。とはいえ、植民地とは次の点で異なる。すなわち、ミディ運河などの公共事業や近現代の軍事・航空産業などによってある程度の手当てはされている。

つまり、地中海が富の大きな通路であった時代、ラングドックは「フランス」の経済的発展を支えていたのであり、その後、大西洋時代には北フランスとはアンビバレントな関係(収奪・低開発化されながら、再配分を受ける)になったと見ることができる。つまり、中世盛期以降、「フランス」が曲がりなりにもヨーロッパで大きな力を持つことが出来たのは、ある意味ではアルビジョワ十字軍遠征などによってこの地域を支配下においたからだということもできそうである。

政治的には王権がブールジュに退いていた時代(15世紀)に支持したのは大きな意味があったと言えよう(これについてはp.62参照)。
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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