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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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茂木健一郎 『思考の補助線』(その1)

「知る」ということが実にやっかいだからこそ、真理を熱心に探究する気持ちも強くなる。自分の志望する大学に入ったくらいで知の探求をやめてしまうような人は、もともと情熱の総量が足りない。本当に知るということの恐ろしさを知っている人は、無限を前にただ呆然とたたずむしかない。
 「理系」「文系」などというくだらない腑分けにこだわっているうちはまだ、情熱の程度が低い。そもそも、学部で卒業したとして、長い生涯のうちたった四年間に何をしたかということだけで、自分の一生の知的志向性が決まるとでもいうのか。学生時代に専門性を突きつめることは大事である。しかし、大学の四年間でやらなかったことがあるのだとしたら、卒業してから勝手にやればいいだけの話であろう。(p.12)


このあたりの感覚は、一般人のものというより大学人のものだと思う。「知のデフレ」に対して怒りを抱くという感覚を、会社に勤めたりしている人たちはそれほど持たないだろう。

ただ、学生などを相手にしていると、こうした思いが脳裏を何度も行き交うのはわかる気がする。そして、情熱を燃やして生きようとしている人から見ると、「学」とか「知」ということとは別として、同じようなことは他の分野でも言えるように思う。情熱の総量が足りなかったり、程度が低いと、ここで茂木氏から怒りの矛先が向けられているようなことが往々にして起こるということである。



 近隣諸国の政治的ふるまいや文化に対する批判的言説を表明すること自体は、表現の自由の範囲内のことである。しかし、批判の対象となる相手に趣旨が正しく到達し、反論があればこちらからもそれを真摯に受け止めるという双方向性のプロセスがあってこそ、批判はその社会的身体を全うする。国際関係に関する言説の事実上の読者が、批判の対象になっている国の国民ではなく、批判することはあってもされることのない、いわば安全圏にいる「身内」でしかないことは、これらの批判的言説のアクチュアリティを著しくそぐとともに、論者たちの知的モラルを低下させる事態を招いてしまうのである。(p.58)


日本で「右翼」ないし「保守」とされる論者やネット上での意見などに対する評価として妥当であり、概ね同意見である。彼らの言説にはアクチュアリティはないし、論者の知的モラル(知的に限らないが)も低いと見做さざるを得ない。



 厳密にいえば、ある概念の普遍性は、その概念の翻訳可能性と一致するとは限らない。たとえば、世界の中のある言語圏だけが到達し、把握している普遍性が存在するということはありうる。それでも、私たちは往々にして翻訳可能なものだけを普遍項として立てることを当然だとみなす。流通性と普遍性を安易に等式で結んでしまいがちなのである。(p.63)


確かに普遍性と翻訳可能性は一致するとは限らないだろう。ただ、「ある言語圏だけが把握している普遍性」なるものが、「ある言語圏だけが把握できる普遍性」と異なるとすれば、それは結局、他の言語に翻訳可能なものであることになると思われる。そして、「ある言語圏だけが把握できる普遍性」などというものがあるかどうか、かなり疑わしい。

私見を述べると、「ある言語圏だけが把握できる心的事実」位はあるかもしれないが、事実factは(Wirklichkeitと違って)言語によって異なるものだから、定義上、factは普遍的ではないのである。Wirklichkeitは絶対的なものとして感知されるから、それが普遍的であると錯覚されるが、それが「完全に」共有されることはないと思われる。だとすれば、共有されえないものは「いつでも、どこでも、誰にでも」当てはまるものではありえず、普遍的ではない。



 日本の論壇で、「個性」の行きすぎということが「戦後民主主義」とからめて批判的に議論されたときがあった。私は、そのような論者に基本的にうさんくさいものを感じて、同調するどころか、まともに取り合う気にすらならなかった。
 民主主義が、否定されるべきものとして議論に出てくること自体、何を言いたいのかわからない。「戦後」という限定詞を付けたからといって、なぜそれがネガティブなニュアンスになるのか?
 「戦後民主主義」の中での「個性」や「権利」の行きすぎを論ずる論客に至っては、最低限の論理的整合性すらないように思われた。「個性」が輝いたり、「権利」が認められたほうが、よいに決まっている。「個性」や「権利」といった、人類が長い歴史の中で勝ちとってきた価値を否定的に議論している論客は、自分の論文が凡百の雑文と同等に扱われたり、財産が恣意的に没収されても、かまわないとでもいうのか。おそらくは、自分だけは例外というわけなのだろう。(p.76-77)


健全な意見である。

民主主義が否定されるべきものとして出てくるのは、貴族主義的な保守政治を理想とし、その体制を擁護する議論として論じられているからである。貴族主義と書いたが、ここでは、一部の権力者が固定的に権力の座を維持し、その他大勢はその権力中枢に近寄ることができないようなシステムという意味合いで用いている。その特権階層にとっては、民主主義は否定されるべき脅威というわけであり、人民によって「個性」や「権利」が主張されることは、彼らの恣意的権力が制限されること意味するのであり、だからこそ否定されるべきものとして俎上に上るのである。

「戦後」という限定詞が付されるのは、論者にとっては「敗戦という(彼らにとっては)屈辱的な経験によってもたらされた」という意味があり、それゆえ否定されるべきという感情が喚起されることと関係しているように思われる。

茂木は「「個性」や「権利」といった、人類が長い歴史の中で勝ちとってきた価値を否定的に議論している論客は、自分の論文が凡百の雑文と同等に扱われたり、財産が恣意的に没収されても、かまわないとでもいうのか」と書いているが、なかなか良いイロニーである。

こんなことを書いている論者の論文など凡百の雑文にも満たない屑だからである。そして、ヘナチョコな論者たちは、恣意的に財産が没収される側というよりは、恣意的に財産を没収する側にいるものとして自分を位置づけた上で発言していることへのあてつけとして茂木が上記のように書いたのだとすれば、さらに的確というべきだ。


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