アヴェスターにはこう書いている?
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水内俊雄、加藤政洋、大城直樹 『モダン都市の系譜 地図から読み解く社会と空間』

 明治維新以降を取り上げる第2章とも関連するが、都市の作り手、統治権力を意識しながらも、比較都市史の観点から、明治維新を越えて次のようにオールドシティ=城下町を見通してゆく必要がある。一般に歴史的都市では、①オールドシティ内部の空間構成は、作り手の意図が明確に反映されている場合が多い。同時に、オールドシティの周辺や境域の外側の隣接空間には、権力との関係がアンビバレントな、地理的にも社会的にも周縁の地区が存在すること(特論1A)。②権力の誇示のために必要とあればオールドシティの入り組んだ街路網は直線道路などによって大幅に改造され、壮麗、祝祭の都市景観が生み出されること(第2章、特に京都)。③近代的都市計画の空間的反映は、オールドシティの空間構成とその周辺の開発状況に規定され、また権力が制度の導入をどのようなきっかけで取り込むかにも条件づけられること(第2章)。そして、④大火、地震や戦争の被災地域の復興といった緊急事態に対し、権力は都市改造に遺憾なくその能力を発揮すること(第3章)。以上の4点である。
 これらの点は、世界的に見ても、多くの近代都市の発展過程で、19世紀から20世紀前半にかけて連続的に生じてゆく。だが日本の場合は、明治維新という(都市)政治体制の大転換、そして城下町という計画都市がすでに存在していたという特殊性により、①から④の連続性を前提としないのである。このことは帝都東京に、よりはっきりと見られる。(p.16-17)


都市を歴史的に見ていくための一つの基本的なモデルを簡潔に説明している箇所と思われるので抜粋しておく。

オールドシティとその外部との関係性については、本書により「インナーシティ」の問題として教えられることが多かった。オールドシティが政治権力によって大改造されるというのは、ナポレオン三世の下で行われたオスマンによるパリの大改造などが最も有名な事例だろうが、他にもかなり沢山の事例があるようである。これまではあまり気にしていなかったが「言われてみれば」という感じがする。



 明治30年代後半は、1906(明治39)年の国有鉄道法の影響もあり、民間資本の投下先は電力や都市郊外鉄道に向けられつつあった。1905(明治38)年の阪神電気鉄道、1910(明治43)年の箕面有馬電気軌道、京阪電気鉄道が相次いで大阪で誕生し、それぞれ、梅田、天満橋と、当時の市街地の最前線から、神戸、箕面・宝塚、そして京都に向けて敷設される。
 それまでの鉄道は、官営・民営を問わず、都市間の長距離客貨輸送を目的としていた。駅間距離は数km以上にもおよび、列車の運行間隔も1時間以上といった、日常の移動を前提とした経営ではなかった。ところが、この時期以降に登場した民営鉄道は、小ぶりの駅を多数設置することで駅間距離を短くし、そして比較的機敏に電車運転を行うことで、都市と近郊を結びつけることになる。なかでも、箕面有馬電気軌道(のちの阪急)は、小林一三の卓抜なアイデアで、郊外、ひいては大都市圏の誕生をうながす画期的な牽引車となる。当時、登場しつつあった俸給生活者(サラリーマン)をターゲットにしたメディアによる喧伝が大きな力となり、市外居住・郊外生活は、都市生活者の新しいライフスタイルとして紹介された。(p.83)


鉄道の役割・位置付けの変化があったわけだが、私がここを読んで真っ先に思い出したのは現代の中国のことである。

現在でも中国では列車(火車)は、都市間の簡単な移動手段と言うよりは比較的長距離の都市間移動のための交通機関として位置付けられている。もっとも、昨今は少しずつ様相も変わってきているが、基本的には隣町に行く場合、彼の地ではバスを使うのが一般的で、列車はあまり利用しない。

上記の日本の事例でも官が主導でインフラを整備し、その後で民間が活躍できるようになったことは容易に見てとれるが、民間企業が活躍できる状態になってから、ようやくそうした日常的な用法が定着することになる。政府としては開発や経済活動のためのインフラとして鉄道が利用されてきた面が大きいのに対し、民間企業は、より日常的な活動の中から利潤を上げようとするビジネスモデルを採用しやすいということが反映しているのだろうか?

また、このように書いてきて気づいたのだが、日本は他国と比較して列車が利用しやすい環境が整っているかもしれない、と思い始めた。

例えば、ヨーロッパでは駅が都心にまで入り込めない点で不便を感じることが多いのに対し、日本の場合、駅前は繁華街やビジネス街に近いことが多い。また、中東はそもそも帝国主義の時代にイギリスと他の帝国主義列強が争っていたため、安定的な権力が存在しなかったためインフラ整備が進まず、そもそも鉄道網があまり発達していない。そして、インドやアフリカの鉄道網については(私は実地では経験していないが)資源を海に運び出すルートは作られたが、都市間を結ぶものとしては構築されていないということを読んだことがある。最後に、中国は上に述べたとおりだ。

世界各地を巡る中で、こうした事柄についての知見ももっと深めていきたいものだ。



 既存の商店街が歓楽の巷となる、つまり遊歩の舞台として盛り場化するきっかけをつくったのは、百貨店へと業態を転換した呉服店であった。呉服店から百貨店への移行は、単に取り扱う商品や販売方法を改めただけといのではなく、それにあわせて建築の様式も変更していたことに注意されたい。意外に思われるかもしれないが、明治~大正前期における各種商店の建築様式は、実のところ現在とはまったく異なり、買い物の仕方まで違っていたのである。
 ・・・(中略)・・・。
 江戸期以来、商店では店主や店子があがりの畳に座して来店する顔見知りの顧客の求めに応じ、商品を棚や蔵から選り抜き手にとって見せる「座売り」が一般的であった(図6-3)。横溝の回想は、住居兼用の小商店のあり方を教えてくれる。しかしながら、都市化の進展、なかんずく都市部への人口の集中とともに、この販売方式はきわめて不都合なものとなったにちがいない。というのも、「座売り」は商品をいちいち出して客に見せる対面販売である以上、不特定多数を相手にする方式としては必ずしも合理的だったわけではないからである。また客としても、気軽に商品を見ることを、そして手に取ってみることを望んだであろう。
 そこに、商品を購入することなく、ただ見るだけという「素見」の可能性を存分に開示する消費施設が登場してきた。それは、明治30年代半ば(1900年代の初頭)にいち早く商品を陳列して販売する方式を取り入れた三井呉服店、のちの三越百貨店である。・・・(中略)・・・。
 百貨店への移行は、単に陳列販売の採用のみならず、商店建築の物理的な改変をともなうものであった。すなわち「日本の百貨店では、明治二十年代後半から四十年代前半にかけて販売形式が座売り方式から陳列販売方式へと切り変えられていき、それと平行して店前にはショーウィンドーが設置され」(初田亨『百貨店の誕生――都市文化の近代』ちくま学芸文庫、1999年)るという流れができあがる。商品を陳列し値札をつけること(「正札販売」)は、顧客ばかりの商いから、都市大衆を客とする商いへの移行を意味していた。(p.155-156)


この部分は本書の中でも最も興味深かった箇所の一つである。

ここでも私が想起したのは現在の中国であった。中国では(中東などもそうだが)今でも結構、対面販売で値段交渉などが行われる。もっとも中国も都市部の繁華街などでは上記のようなショーウィンドウや正札販売が定着してきているが、商店は比較的小規模な個人経営と思われる店が結構多く、しかもその店の構成が次に引用する文章のように、間口が狭く、奥に長い構成になっている。(こうした傾向は、中東のスークなどでも見られるのではないだろうか。)日本やヨーロッパでは、個人商店でも比較的道路に面する面積が大きいと思うが、それとは異なっている。

対面販売と値段交渉と間口の狭い店舗建築のセットと陳列販売と正札販売と間口の広い店舗建築のセットは、確かに合理的な組み合わせであり、都市をとおして社会のありようを考察して区上で重要な視点を提供してくれるように思われる。(間口が狭い方が店舗の面積は小さく済ませやすいと思われる。)



 「縦の商店街」と称された百貨店の登場――それは、大都市の百貨店の支店展開にもよっていた――は、後述するように都市における新しい消費行動の様式(ウィンドーショッピング)を定着させる契機となっただけでなく、百貨店化することのない各種商店にも少なからず影響をおよぼした。つまり、各地の商店もまた販売方式の転換に取り組みはじめたのである。間口が狭く奥行のある「町家」式の店舗は、この時期、「陳列販売」方式を採用するために間口を広くとり、建物の前面にショーウィンドーを、そして店内には陳列スペースを設けるようになった。(p.158)


店舗建築の形式が変わったことは上述した。こうした相乗効果的な変化があったこともまた興味深い。そして、この相乗効果的な変化のうちで最も興味が引かれたのは次の引用文の箇所であった。



 商店会の積極的な活動の背景には、当時、ひとつの社会問題となっていた「百貨店対小売商」という対立図式があった。たとえば、十三は「〔最近2、3年来〕近接地百貨店ノタメニ圧迫」されているといい、生玉でも「〔最近10年来〕百貨店、公設市場ノ重圧ニ苦シム」という状況が報告されている。「高島屋ト十合ノ開店ニ依リ衰微」した道頓堀が打ち出した対策は面白い。アーケード化シテ平面ノ百貨店街トスル」ことを構想したのである。・・・(中略)・・・。「百貨店」に対抗する「平面の百貨店」というわけだ。(p.161、本文傍点部は引用文では下線を付した。)


百貨店や大型のデパートが進出してきたことによって小売商が打撃を受けるということは確かに現代でもあると思われる。それに対抗するために商店会が打ち出した対策としてアーケード街や商店街を形成したというのは、なるほどと思わされた。

私の住む市や隣の大都市などについてみても、市の中心部にアーケード街や地下街があり、当然その近辺には大きなデパートがあるという構図になっている。こうした商店街の形成とデパートの存在とは恐らく切り離せない関係があるのだろうと想像される。

ちなみに、一言付け加えると、百貨店と商店街とは必ずしも対立的な関係にあるわけではない。例えば、私の住む市ではアーケード街に面してデパートが建っていたが、そのデパートが撤退したことによって商店街が打撃を受けたとよく言われている。そうだとすれば、このデパートと商店街が共存共栄の関係にあったとも言えるだろう。

なお、デパートが撤退した原因は、市外の中心部から離れたところに巨大商業施設ができたことにあるとされ、そちらも実は経営的にかなり苦しいとされており、商店街、市街のデパート、近郊の巨大商業施設の三者がまさに共倒れの状態にある。これは私にとっては都市計画の重要性を感じさせられる事例である。



 戦災といえば、爆撃による消失が主であると思い込みがちであるが、実は戦災を被る前から人員疎開ならびに、建物疎開と称して全国で55万戸に上る建物の除去が行われており、200万人分の市街地が強制的に取り壊されていたという事実がある。疎開は、第2次大戦開戦時にイギリス政府が使用した‘evacuation’の訳であり、当初は防空意識をそぐということで「避難」と訳されていたものの、1943(昭和18)年の戦況の悪化による10月15日の閣議決定「帝都及重要都市ニ於ケル工場家屋等ノ疎開及人員ノ地方転出ニ関スル件」で「疎開」に転換される。(p.212)
「疎開」って意外と新しい言葉なんだな。それ以前から言葉としてはあったのかも知れないが。

あと、直接の爆撃などが行われる前から建物疎開などという形で都市が壊されていたというのは、普通に語られる中ではあまり出てこないために想像すらされないことであり、こうした指摘は貴重である。なお、本書によるとこうした除去のほかに軍事施設などが各地に作られたことによって都市の様相が変化したことなどが指摘されており、興味深いものがあった。

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