アヴェスターにはこう書いている?
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佐藤喜彦 編著 『【中国からの留学生】 ニッポン見たまま感じたまま』(その2)

 日本では、国旗掲揚に反対する人もいるといことを聞いて、不思議でたまらない。
 ・・・(中略)・・・。
 日本人の「愛国心」は今日本人の間でも話題になっているが、中国人の私から見れば、それは議論の余地もない大切な問題だと思う。
 外国に行けば愛国心が強くなるという言葉を聞いたが、それはもっともだと思うようになった。国があって個人なので、外国に行くとほとんどの場合、国の名前が自分の代名詞になるからである。
 国を愛していないということは、自分自身を愛していないということではないだろうか。(p.88-89)


「日本の右翼」と「中国人」の奇妙な一致というべきか。ま、どちらもナショナリストなので奇妙でもなんでもないんだが。

この議論で根本的に間違っているのは、「国があって個人」という認識である。物理的に触れることができる「個人の身体」なしに、触ることが絶対にできない「国」という観念があるはずがないのである。(デカルト的な独我論に立ってさえも、これは当てはまる。)

「愛国心」の対象として思い描かれるところの「国」と呼ばれているものは、常に「観念」でしかない。それは決して触れることができず、想像されることができるだけである。「国」として表象されるものが現実に何かの物理的な作用を生じさせると考えられているとき、その作用を生み出しているものは、「国」として表象されるものとは常に別の「者」である。

具体的な組織としての「政府」のことを「国」と呼ぶことがあるが、「愛国心」を重要だと言う人は「愛政府心」を主張しているわけではないだろう。また、地方政府とは別の中央政府を「国」と呼ぶこともあるが、「愛国心」を重要だと言う人は「愛中央政府心」を主張しているのでもないだろう。あるいは、自分の故郷である地方や地域のことを漠然と指す「国」という言葉もないわけではないだろうが、その場合の「国」は「日本」とか「中国」といった「国」とは別のものであり、「国旗」とか「国歌」とも必然的なつながりを持たない対象である。強いて言えば、「日本」とか「中国」といった「国」のエリアに包摂されている地方であるとは言えるかも知れないが、「全体」を象徴する「国旗」や「国歌」との必然的なつながりは存在しない。そのつながりを想定するときは「愛国心」の対象となる「国」が前提されるが、その「国」は「観念」にすぎず、具体的な対象ではない。

さて、留学生は「国を愛していないということは、自分自身を愛していないということではないだろうか」と言っているが、これも逆なのである。自分自身を愛していないから愛国心などを持ち出さなければならないのである。

「国」などという「意味不明な観念」を愛しているヒマがあれば、具体的な対象を愛するべきであり、自分自身を愛している人ならばそのように振舞うであろう。大事なのは(「愛国心」のような)観念を抱くことではなく、どのように(具体的に人々を愛する)行為するか、ということだからである。

さらに、外国では国の名前が代名詞になるというのは、ある意味ではその通りだが、事柄の一面でしかないものを全体に当てはめている点で間違っている。人間対人間の関係が成り立ってしまえば、国の名前は代名詞にはならない。相手を全くというほど知らないという疎遠な関係のときに「国の名前が代名詞」になり、アルバイトの面接が拒否されたり、話をしても国に関することを話すことになるのである。

なお、日本の左派やリベラルなどが国旗掲揚に反対するのは、国旗が「国」なるものを象徴するものとされることによって、「国」というものがあたかも身近にあるかのように錯覚させる効果を持っており、旗を掲揚することは、そのようにして存在することとされた「国」なるものを称揚する行為であるからであり、その上で、歴史的に見て、大日本帝国の臣民は「国」なるものを愛するように仕向けられたために、具体的な諸個人が犠牲にされてきたからであろう。

実際に「国を愛せ(愛すべき、愛して当然だ)」というのは、「国」の名をかたる「政府」にとっては非常に都合のよい言説である。例えば、「国」の名をかたる「政府」が「個人」をその「軍隊」という「組織」に引き入れることに対する抵抗をしにくくさせる。そして、「組織」に入ってしまえば、会社の命令や指示に逆らいにくいのと同じように、いや、それ以上に組織の上から来る指示には逆らえなくなり、政府ないし軍隊の上層部の人間に操られる大量の人間が出来上がる。ここでは個人は犠牲にされても文句を言うことができない。このように個人の生命や尊厳を「集団・全体・組織」といったものに従属させる思想であり、それは「個=自分自身」を大切にしていないことを意味するのであり、「自分自身を愛していない」ことになるのである。国旗掲揚に反対する人々は、おおよそこれと共通する考えを持っているように思われる。

一言でいえば、国旗掲揚反対派は、個人の価値・尊厳を重視し、「国」という名をかたる「政府」という組織にそれを従属させることを批判しているのである。



 世界のどの国でも歴史を学校の欠かせない授業科目にしているのに、どうして中国の歴史教育を日本側は反日教育だといっているのか、正直私は理解できない。
 歴史的事実はひとつだけであり、その事実を正しく子どもたちに教えるのが学校の役割であり、そのあとは子ども一人ひとりに、自分なりの考えを持たせればいいと思う。(p.114)


恐らく、これは本書に表示されている属性や年齢などから推測して、上の引用文を書いたのと同じ学生による意見である。

一つ前のエントリーで私は中国の情報統制や言論統制が比較的成功していることについて述べ、「自国の内部の状況が他国と比べてどうなのか、といことを十分に知らないために、自分たちのおかれた状況を相対化できていない」と書いたが、この学生の意見は、その典型であろう。

確かに世界の大半の国では歴史を教えているだろう。問題は何を教えているか、ということであり、中国の歴史教育が「抗日戦争」に重点を置きすぎていると見えること(実際に、他の国々で教えられる歴史での日中戦争の扱いと、中国におけるそれとの違いは極めて大きなものではなかろうか)に一つの原因があるはずである。その上、中国共産党の立場から歴史を叙述していることも大きいだろう。

私自身は中国の歴史教科書は読んでいないので断定的なことは言えないが、南京大虐殺祈念館に示されている歴史認識が、中国政府が認める歴史観と同型であるとすれば、日本に対するイメージは悪くなるように描かれているとは言えるだろう。特に、戦後、日本による貢献がほとんど紹介されていないというような偏りがあるとすれば、適切な扱いとはいえないだろう。

「歴史的事実はひとつだけ」というのもあまりにナイーヴというほかないだろう。「事実の理論負荷性」について思いを馳せるべきであり、学生に対しては、その中で歴史叙述がいかにして「客観性」を保ち得るか、といった問題に取り組むことを勧めたい。どのような価値観・考え方に基づいて叙述する対象を選択したのかといったことについて、自分と読者に対して明確に示さなければならない。それが欠けているために「客観性」が担保されていない実例だといえる。

私は中国の歴史教育が「反日」を目的にしているとは考えないが、付随的な効果としてそうした観念の形成を助長するものであるとは考えている。



中国にいるとき、テレビや本を通して日本人の生活水準の高いことや日本が便利な社会であることを分かっていたつもりだったが、実際に来てみると想像以上のことがあまりにも多い。(p.128)


逆に日本から外国に行くと、不便に感じることが多い。だから、日本からの旅行者は(ある程度旅慣れていない人は)外国では何もできない傾向があり、パックツアーなどで行く人たちについては、目を覆いたくなるような惨状だったりする。犯罪に対する備え(配慮)などが圧倒的に足りない傾向がある。



 しばらくして日本の新聞、雑誌にはカタカナで表した外来語があふれているのに気付いた。あるとき日本人のクラスメートに新聞に載っている外来語の意味をたずねたら十個のうち三個しか分からないのには驚いた。
 これはつまり、日本人が理解できるよう日本語化されていない語がまかり通っていることを意味している。このように外来語になかば独占されている現象を「日本人は母国語に誇りを持っていない」ととらえたら日本人は腹を立てるだろうか。
 中国人は母国語をはじめとして自国の文化に誇りと自信を持っている。(p.181)


このように「誇りを持つ」ことを是とする価値観の人は、中国には確かに多いようだし、日本でもここ10~15年ほどの間にかなり増えたと思われる。

しかし、私に言わせれば、「母国語」や「自国の文化」に「誇り」を持ったら、一体何の得があるのか?何のメリットがあるのか?と尋ねたくなる。いたずらに他者蔑視に結びつくリスクが高まるだけで何のメリットもないように思われる。「自国の文化」に自信や誇りを持つことによって「他国の文化」を尊重できるというような綺麗ごとは言葉では言えるかもしれないが、それを実行することは「達人倫理」に属する。それに「母国語」も「自国の文化」も権力者の側から作られたものであるという歴史があることに思いを馳せれば、上のようなナイーヴな意見を抱くことには大いに違和感を持つべきだとさえ言えるように思われる。



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