アヴェスターにはこう書いている?
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大岡敏昭 『日本の住まい その源流を探る 現代から古代-中国の住まい』

 中下級武士たちは明治になってさまざまな職業に転じた。建具、大工などの職人や雑貨屋、また金融業などの商人になった者もいたが、慣れないゆえに失敗も少なくなかった。その中でも多くは、官吏、警察、学校、企業などの俸給生活者に転じた。園田英弘氏によると、それらの職業に士族が占める割合は、官吏の76%(明治18年)、郡区長の47%(同年)、中学教員の78%(明治16年)、小学校教員の40%(同年)、警察官の80%(明治13年)であった。(p.61)


俸給生活者(サラリーマン)になったとされているが、職種の多くが現在の公務員であることには注目してよいであろう。士農工商の「士」の中下級の者がこの「身分」に就いたということである。その後、明治の後期から大正時代になると、士族の割合は下がっていき、農民や町人出身の割合が増えていくそうだが、いずれにせよ興味深いものがある。個々の職業の呼び方や役割は変わっても、社会層の状態そのものが一挙に大きく変化することはないのである。



 ところで寝殿造と四合院という名称は後世の研究者が名付けたものであって、もちろん当時の人たちはそのように呼んではいない。寝殿造の名称は江戸末期の澤田名垂が書いた『家屋雑考』の中で始めて名付けられたことがわかっているが、では四合院はどうか。
 日本における中国の住まいの研究は戦前から多く行われてきた。それは明治35年の伊東忠太氏による寺院、住家などの精力的な調査に始まり、大正から昭和の始めにかけての伊藤清造、八木奘三郎氏らの調査がある。それらが中国建築研究の先駆けであった。ところがそれらの著書論文の中では、いずれも四合院という名称は使っていない。この時代になっても四合院という名称はまだなかったからといえる。
 それでは、いつ頃四合院という建築名称が生まれたのであろうか。
 中国における建築研究は伊東氏の研究を模範として始まったが、民国時代の23年(1934)に出版された梁思成氏の『清式営造則例』の中に「四合住宅」という名称が始めて出てくる。
 ・・・(中略)・・・
 梁思成氏は、そのような中国の古い言葉を引用し、院の四方に建物が囲む形式を四合住宅と名付けたのであろう。そして1960年前後から中国研究者による住まいの研究が活発化するが、その四合住宅という名称に院を加えて四合院として慣習的に用いるようになったものとみられる。また後の日本の研究者もそれを真似たのであろう。(p.79-80)


本書によると、「四合院」という言葉の元になる「四合住宅」という言葉が1934年に登場し、「四合院」として一般化したのは1960年前後ということになる。予想以上に新しい言葉であることに驚いた。

それ以前はどのように呼ばれていたのか?やや気になるところである。



北方少数民族のツングース系女真族は明の支配体制を継承して、圧倒的多数の漢民族を利用懐柔して清王朝を支配してきたが、その宗教政策は儒教文化を尊重しつつも、仏教寺院、道観、イスラム寺院などの多彩な寺院を容認していた。その寺院は四合院とほとんど変わらない。これは唐代でもそうであったが、その多くが上層邸宅を喜捨したものであり、寺院、道観などと四合院が酷似するのは当然であった。(p.254)


上層邸宅を喜捨したものであるというのは、他の地域の寺院や教会堂の成り立ちと異なるように思われ興味深い。イスラーム世界などでもモスクやマドラサは喜捨によって建てられるが、その場合、私が知る限りでは喜捨した金で、予めモスクやマドラサとして建設されていたと考えられるからである。中国の場合、既存の邸宅を利用したということであるとすれば、特徴的だといえるだろう。

もしそうなのだとすれば、これは宗教の聖職者たちの社会的地位と彼らが持っている権力の大きさを反映しているように思われる。すなわち、中国では宗教者達ないし宗教団体のもつ社会的な地位や権力は他の地域より小さかったと考えることができる。

皇帝や地方豪族が宗教者とは独立した知識階層の官僚を有していたこととこれは深く関わる。すなわち、ヨーロッパなどでは官僚制を維持するための文字を利用する能力を持つ人材のかなりの部分を聖職者が占有していたように思われるし、イスラーム世界では宗教者はシャリーアやフィクフなどの宗教法を制定する者であることなどによって、政治的影響力を持っていた。それと比較すると、中国の宗教的リーダー達の社会的地位や権力は小さく、高い識字能力や文学的教養を身につけているが、必ずしも宗教的ではない官僚たちが大きな権力を持っていたように思われる。



 上層邸宅において堂の前方左右に廂房が一般化するのは宋代、とくに元代以降であり、したがって四合院の一般化もそれに伴っている。それは小規模の邸宅で始まっていた。つまり廂房の普及は一つに宅地の小規模化を背景にしていた。それは宅地間口が狭くなり、唐代の上層邸宅にみられた間口五間~十一間ほどの堂は設けられず、堂の両端の部屋を廂と称していたが、それを廂房として院の両側に設けるようになったものとみられる。(p.260)


「四合院」という名称は20世紀半ばのものだが、四合院の住宅自体は宋代以降に一般化したものである。逆に言うと、唐代や三国時代などには四合院は普及していなかったということである。

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