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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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荘司雅彦 『反対尋問の手法に学ぶ 嘘を見破る質問力』(その1)

 私は、人との待ち合わせなどのときによく「ヒューマン・ウォッチング」をしています。
 ・・・(中略)・・・。
 一人で歩いている人は、人相や動きに変化がないので「見る目」を養うことはできませんが、携帯電話で話している人や数人で話している人たちを見ては、「この日とは取引先と電話しているのだろうか?それとも上司?」とか、「この人たちの中でリーダー格は誰だろうか?」などと、勝手に想像しています。(p.47)


人を見る目を養う際に、参考になるトレーニング方法だと思う。



 人々は、起こったに違いないと信じている事実に思いを巡らせているうちに、やがては実際に起こったことを思い出しているように思い込んでしまうものだ。(p.56)


これは『反対尋問の技術』からの孫引きであるが、全く同感である。

私見では、精神疾患の患者などに、こうしたタイプの言動が異様に多いように思われる。精神疾患の患者の多くは、被害妄想的な観念を抱いていることが多いが、その被害妄想のかなりの部分は、このようにして「作られた事実」であると思われる。もちろんその「事実」には「実際に起こったこと」が反映している部分もあるが、患者自身によって「作られている」部分もかなりあるということである。しかし、本人にとってはその方が「都合が良い」ため、これらの被害妄想の大部分を「自分が作っている」ということを直に指摘しても認めることはまずない。

本書では「メタ認知」の重要性が説かれている箇所があるが、私が上で述べたようなタイプの人々に共通して見られるのは、この「メタ認知」の能力の低さである。平たく言えば、自分を客観的に(第三者の立場から)見ることができないということである。



 以上のように、人間の記憶というのは極めて曖昧なもので、警察などの国家権力からのバイアス、「早く解放されたい」という自分自身の都合によるバイアス、マスコミの報道から受けるバイアスとい、大まかにいって3種類のバイアスが複合して、人間の「思い込み」や「偏見」が、見事なまでに存在した事実に対するその人の記憶に変化してしまうのです。(p.70)


本書では上記の3つの「バイアス」を特に重視しているが、それは法廷で問題になるような場面を主として想定しているからであるように思われる。

バイアスという用語法は「全くバイアスのない純客観的な認識」が存在することを想定させてしまう点で多少の問題はあるが、それは措くとしよう。それを措いた上で一つ興味深いのは、マスコミからの「バイアス」によって、記憶(事実についての認識)が大きく変容するのは、確かであると思われる。

私がこれについて強く思うのは、現代の日本において、新自由主義的な観念が肯定的なものとして広く共有されているという事実である。最近はようやく新自由主義が否定的なものとして扱われ始めているが、それはまだ表層的なレベルでしか実現していない。

例えば、税というものをほとんど一義的に「悪」であると見做すような考え方はまだ広く信じられている部分があり、これは20年近い年月をかけてマスコミで宣伝が行われてきたことの結果である。これが覆るまでには相当の年月を要するように思われる。



 つまり、自分自身をある程度客観的に見ることができる人(「メタ認知」能力の高い人)は、どちらかというと自分自身の「思い込み」と現実に存在した事実の記憶を混同してしまうことが少ないのではないでしょうか。(p.71-72)


同意見である。本書で「メタ認知」の重要性を指摘されているのを読んでいて私が思い出したのは、M.WeberのWertfreiheitはまさにこの「メタ認知」を活用し、それを表面化させる作業であったということである。

Wertfreiheitの概念自体は、ウェーバーの思想形成史の中で多少の揺れがあると思うので多少雑駁に捉えておくとしても、自分が拠って立つ究極的な立場・価値理念を自分と他人に対して明示せよという要請などは、まさにメタ認知を働かせた上で、それによって認知されたことをさらに言語化して表現せよということである。

私にとっては、こうした訓練を積む際に、ウェーバーを読むことは役に立ったと思っている。別のきっかけがあって、久しぶりに原点に回帰してウェーバーでも読み返そうかと思っていたところだったのだが、本書を読んでからは、メタ認知の能力を高める、少なくとも衰えを取り戻すという意味でも、ウェーバーを読み直す意味はありそうだと思うようになった。



 思うに一貫して嘘をつき続けることは、厖大な精神的エネルギーと、常に内心の葛藤を抱えていなければならないという、一種の「苦行」に近いものではないでしょうか。
 その苦しみから自分自身を解放するために、「嘘」を「真実の記憶」に無意識的に変容させてしまうことが多いのでしょう。(p.87-88)


嘘をつき続けるということが、精神的なストレスになるという指摘には納得させられた。

一時的には嘘によって、「その場を誤魔化す」ことはできるかもしれないが、嘘をつき続けることは大きなストレスになるというわけである。そして、そのストレス(少し前の引用文での「自分自身の都合によるバイアス」に近い)を記憶を変容させることによって緩和するという形でそのストレスから逃げるわけだ。

その場しのぎの「逃げ」の手段として嘘をつき、嘘をついたことのストレスから「逃げる」ために、記憶を自分の都合のよいように変容させ、その変容した記憶(変容した事実)に固執することによって自我を防衛する、というのが私がこのエントリーの2つめの引用文に対するコメントで指摘したタイプの精神疾患の患者が形成される、典型的なパターンであるように思われる。少なくとも論理的にはこのようになっているように思われる。

ここから、人生における不都合な事実から逃げ続けた挙句の果てに自分の心の中に追い詰められている、という姿が浮かび上がる。

もっとも、すべての精神疾患がこのようなものではないが、私が知るある程度の数(数十件程度だが)の症例や病気の一歩手前くらいに不健全な事例は、このように解釈しても大きく外れてはいないように思われるのである。



 多くの人たちが「世間の人間は嘘つきだらけだ」と憤る背景には、相手の「記憶違い」のみならず、自分自身の「記憶違い」も全部含めてしまうからでしょう。(p.89)


なかなか説得力がある。自分の記憶違いの可能性をもっと疑い、謙虚に振舞うべきだということだろう。

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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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