アヴェスターにはこう書いている?
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J.S.ミル 『代議制統治論』(その2)

そしてここで、官僚制統治は、ある重要な点で、たいへんすぐれていることが、認められなければならない。それは、実際にことがらを処理する人びとのなかに、経験を蓄積し、よくためされよく考慮された伝統的な原則を獲得し、適切な実際上の知識を準備する。しかし、それは、個人の精神的活力にとっては、同じく有利なのではない。官僚制統治をむしばむ病気、そして通例そのためにそれが死亡する病気は、型にはまった日常性である。(p.151-152)


マックス・ウェーバー的に言えば、前者のメリットは「専門知識」によるものであり、後者のデメリットは「伝統的行為」によるものと読み替えられそうである。

それはさておき、90年代に官僚批判が新自由主義の勢力によって盛んに行われ、不況が長引く中で「悪者探し」が多くの人びとの心の中に芽生え、それがかなり育ってしまってしまった結果、今日の日本では、「官僚制統治」はネガティブなものとしてしか語られない傾向がある。それに対して、そうしたイデオロギー的に偏向した現在の日本ほどかかっていない(もう少し適切に言えば、イデオロギー的な状況が大きく異なる)過去の文献などを読むと、昨今の風潮が持つ特徴がよく見えてくる。そうした意味から、私としては、知的な人びとには古い文献(19世紀後半から20世紀初頭頃のもの)を読み直すことを勧めたい



(3) イギリスでは既婚女性財産法(1882)の成立まで、妻には財産権がなかった。(p.272)


これはミルが書いたことではなく、訳者による注だが、ほんの130年ほど前のことでしかないことに驚かされる。



諸原理にきわめて精通している当局が諸原理にかんして最高であるべきであり、一方、細部についてきわめて有能な当局が細部をまかされるべきである。中央当局の主要な業務は、指示を与えることであり、地方当局の主要な業務は、それを適用することである。権力は地方に分散されていいが、知識はもっとも有益であるために、集中されなければならない。(p.369)


地方の政治のあり方について述べられた章での記述。おもしろいことに、ミルがここで述べているようなやり方は現実の日本のやり方にかなり似ている。

ただ、かなりの部分は細目まで中央により決められ、それが通達(現在は「通知」)されるという点では異なっているとも言えるが。また、指示する権限の所在や知識をどこで集約するということと同程度かそれ以上に重要なのは財源の問題なのだが、それについてミルは十分に考慮していないように思われる。



 ミルは、個性、少数意見の尊重をときながら、また「人の世のできごとの、たえずながれてとどまらない悪化にむかう流れ」を指摘しながら、文明と教養への信仰をすてることがなかった。それは未開に対する文明の優位(植民地支配)、無教養に対する教養の優位を、当然としたことにあらわれている。価値観や文化の多様性という問題は、かれの視野のなかに、まだ明確なかたちでははいっていなかったけれども、われわにれはかれの著作を歴史的文脈のなかで読むことによって、過渡期の思想家といわれるかれの矛盾のなかに、かえって問題の本質を見ることができるのである。われわれはまだ「腐ったオレンジ」の支配から解放されていない。(p.451)


これは本書の解説における、ミルの思想の位置づけと意義を要約した箇所である。ミルが「文明と教養への信仰」を強く持っていることは本書から非常に強く感じられることだし、そこに矛盾を見つけることも現在の観点から見るとたやすいことである。しかし、その矛盾、より正確には食い違いがある複数の考え方の並存を見て取ることによって、問題の所在や性質が明らかになるというのは確かであり、この引用文における指摘は大変的確だと思われる。

端的に言えば、文明・教養の側と未開・無教養の側に異なる原理を適用しているのがミルのやり方である。前者の優位を当然のこととし、これらが同水準のものは同水準に扱われるべきであり、同水準の権力を持ち行使すべきだとする。これに対し、「程度が落ちる」に従って認められる権利も行使できる権力も小さなものとされる。例えば、無教養なことが多い労働者は教養ある階級よりも政治的権利は小さく制限される(複数投票制などによって)。デモクラシーの政体を自ら維持できないとミルによって認定される「未開の国民」には植民地支配が正当なものとされる。

ミルによって当然のものとされている、教養(文明)の高さと低さが絶対的でなくなってしまえば、このある意味で「便利な」区別は使えなくなる。すべての人びとに対してミルが「教養・文明」水準が高いと判定した人びとと同等の扱いをすべきなのか、それともそれには何か困難があるのか。理想として前者が追求されるべきだということは漠然とした了解があるかもしれない。そうだとすれば、その実現を阻む要因として何があるか、ということを見いだし解決していくことが求められるのだろう。

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