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アヴェスターにはこう書いている?
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J.S.ミル 『代議制統治論』(その1)

本来の意味での奴隷とよばれるものは、自発性についてはなにも学んでいない存在である。もちろんかれは、野蛮人よりは一歩進んでいる。かれは、政治社会の最初の課程をこれから取得するまでにさえなっていない。かれは、服従することはすでに学んでいる。しかし、かれが服従するのは、直接の命令に対してにすぎない。自分たちの行為を、規則や法に一致させることができないのが、生まれながらの奴隷の特性なのである。かれらにできるのは、命じられたことだけであり、しかもそれをするように命じられたときだけである。かれらが恐れている人がかれらを監督しており、刑罰をもって威嚇しているならば、かれらは服従する。しかし、その人が背をむけると、その仕事は未完で放置される。かれらを決心させる動機は、かれらの利害関心にではなく、かれらの本能つまり直接の希望か恐怖に訴えるものでなければならない。野蛮人を飼いならしうる専制は、それが専制である限り、奴隷をその無能力状態に固定するだけであろう。けれども、かれら自身が支配する統治は、かれらによってはまったく運営できないであろう。(p.60-61)


「生まれながらの奴隷」に特別の本性が備わっているかのような言い方自体は不当なものだが、最近、私が低所得の社会層についてリサーチしていて強く感じることの一つに、人が人生観や世界観の形成するにあたって、家庭環境、特に親の考え方や育て方が強く影を落とすということがある。その際、生育環境が「不利な状況」であることが人生観形成にネガティブに作用するということを強く感じざるを得ない。

そうした感覚に照らすと、ミルの上記のような、いわば「偏見」のある見方には問題もあるが、一般に「不利な状況にある人たち」の行為の特性をかなり的確に捉えている側面もあることは否定できない。つまり、ミルが言うように、彼らは「自発性についてはなにも学んでいない」のであり、「かれらにできるのは、命じられたことだけであり、しかもそれをするように命じられたときだけ」という点である。

「教育」の重要性ということが強調されるべきである場面の一つは、こうした側面を除去・矯正していくというところにあるように私には思われる。そのためには、高等教育を含む教育の無償化や低価格化は不可避的な課題であるように思われる。

現状では教育にかかる家計からの支出は増大傾向にあり、「教育」が語られる際には、「右翼の歴史観」を教えるべきだとする暴論などによって、こうした本当の問題がかき消されてしまうことが残念でならない。



人類が原則として他人よりも自分自身を、とおい人びとよりももっともちかい人びとを好むということが、真理でなくなるときにはいつでも、その瞬間から、共産主義は実現可能であるのみならず、唯一擁護できる社会形態であり、そして、そのときが到来すれば、それはまちがいなく実行されるであろう。わたくし自身としては、普遍的利己主義を信じないので、共産主義が、人類のエリートのあいだでは現在でさえ実現可能であろうし、のこりの人びとのあいだでもそうなりうる、ということを認めるのになにも困難はない。(p.80)


ミルの思想の大まかな位置づけとしては、中道ないし保守的なリベラリズムのあたりにあると考えていた私にとっては、上記はやや意外な発言だった。

「普遍的利己主義」が現実と食い違うということには私も同意するが、「普遍的利他主義」を前提しない限りミルが考えるような「共産主義」は実現できないだろう。人びとの道徳観ないし行動原理が「普遍的利己主義」でないことは、「普遍的利他主義」であることを意味しないし、それが可能であることさえも意味するわけではないということをミルは十分に考慮していないように思われる。

人間にはどちらのタイプの動機も存在するのであって、社会を一色に塗りつぶすことはできない。少なくとも社会問題や政策について考える際には、そのように前提すべきである。現実から大きく乖離した理想主義に陥らないためには。その意味で、ミルの共産主義の実現可能性についての見解は「強い個人」を仮定してしまっていて不当である。



 代議制統治の意味するところは、国民の全体あるいはかれらのうちのある多数者からなる部分が、かれら自身によって定期的に選挙された代表者を通じて、究極的支配権力を、行使することであって、この権力はすべての国家構造において、どこかに存在しなければならない。(p.118)


代議制統治においては、究極的な支配権力がどこかに存在しなければならないとする発言は、事実認識としては誤りであり、ミルはこれを誤って想定しているに過ぎない。ミルのイメージでは、どこかにその究極的な権力の源泉がなければならないことになりそうであるが、そのような源泉は存在しない。また、その権力は権力者が意図して生じさせているものではないだろう。

複数の主体が相互に作用しあっていく中で、副産物的に権力が発生していくのであって、権力を行使しやすい位置にあるノードがそれをコントロールしやすいのは確かであろうが、権力を完全にコントロールできる主体も、権力の単一の発生源であるノードやクラスターは存在しない。そうだとすれば、権力が単一のものであると想定することも、それの単一の源泉があると想定することも、それをコントロールする単一の主体があると想定することも、権力の作用を見誤ることになるだろう。

ただ、例えば、法律上は特定の期間に最高の権力があることにするなどのフィクションを謳わなければならないことがあることは確かであり、そのように謳うこと自体が、その機関に権力を行使しやすくすることなども確かではあるが。

権力はどこにでも存在するが、それを誰かが意図的に利用できるかどうか、利用できるとしてもどの程度利用できるか、といったことは、その主体の立場や他の主体との関係性、そのときの(偶然的あるいは構造的な)状況によって左右されるのである。

(ちなみに、ミルのような見方は、「陰謀論」とも通じる見方であると思われる。)



 しかし、民衆的合議体は、行政を行ない、行政の任に当たる人びとに細かく指示するには、いっそう不適当なのである。干渉は、誠実な意図をもつものであっても、ほとんどつねに有害である。公共行政の各部門は、熟練を要する業務であって、それぞれ、特有の原理と伝統的な規則を有し、それらの多くは、かつてその業務にたずさわった人びとでなければ、なにか効果的なやりかたで知ることさえできないものであり、また、それらのいずれも、その部門に実際に通暁していない人びとによっては、正しく評価できそうもないものなのである。わたくしは、公共業務の処理は、それを創始した人だけが理解できるような、難解で謎めいたものだ、といっているのではない。その原理は、対処すべき状況や条件の真の姿を心中にもっている良識人ならば誰でも、すべて理解できるが、これをもつためには、その状況と条件を知らなければならないし、その知識は、直観によっては生じないのである。公共業務のどの部門にも(すべての私的職業におけると同じように)、きわめて重要な多くの規則があり、その問題に未熟な人は、その規則の理由を知らないか、あるいはそれらが存在するのではないかと考えることさえない。なぜなら、それらの規則は、かれがけっして想像したこともないような危険に対処し不便に配慮しておくために、企図されているのだからである。(p.124-125)


昨今の「官僚叩き」「公務員バッシング」の風潮に対して私は強い違和感を持っており、複数のブログでこれについて論じてきたが、ミルのここでの議論に私も強く同意する。もちろん、行政機関には適切な情報公開が求められ、それらについて説明責任があるべきであり、ミルの議論にはこの点が抜けている点で不十分ではあるが、昨今の「公務員バッシング」は、情報を適切に分析することなく「直観的な意見」によって行われており、そうした意見の持ち主にとっては「けっして想像したこともないような危険に対処し不便に配慮しておくために、企図されている」ようなものまで、知識に基づかずに、単なる反感に基づいて非難対象としてしまっているところがある。

行政に対しては、言葉の正しい意味での「批判Kritik」を行うべきであって、反感に基づくだけの「非難blame」による干渉はミルの言うとおり有害なのである。

ちなみに、政治についても同じことは言えるが、政治はより「素人」に開かれたものであり、権力闘争の場であるから、多少の「批判なき非難」が行われることは甘受しなければならないだろうが。



偉大な政治家とは、伝統を固守すべきときを知るとともに、それから離れるべきときを知る人だというのは、真理である。しかし、伝統に無知であるほうが、よくこのことをなしうると想定するのは、ひじょうな誤りである。(p.125)


ここで「伝統」と言われているものは、前の引用文にある、行政における「伝統的な規則」を受けたものである。つまり、少し大きく解釈すれば「行政が継続的に行ってきたこと」くらいの意味である。

つまり、偉大な政治家とは行政がどのようなものであるかを良く知っていなければならないのである。執行部を動かさなければならないのだから、それは当然であろう。これに対し、小泉純一郎や橋本徹はこの対極に位置する政治家だと言わなければなるまい。

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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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