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アヴェスターにはこう書いている?
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西岡文彦 『二時間の印象派 全ガイド 味わい方と読み方』

むしろ、絵画を見るコツとしては、「食べるつもりになって見る」方が得策であろう。(p.7、強調は引用者)



この考え方は、次の旅行で美術館めぐりをする際に試してみたい。感覚的にはなかなか使えそうである。

 無論、印象派がここまで罵倒されるには、それなりの理由があった。最大の問題は、これらの作品が美術品における完成品と未完成品の境をあいまいにしてしまう点にあった。

 絵画に限らず、ある商品の完成と未完成の間に明確な差がなくなることは、その商品を取り引きする業界そのものへの信頼の喪失を意味している。(p.80-81)



この部分は、私がしばしば抱いてきた疑問に答えるものであった。すなわち、何故印象派はやたらと「罵倒された」ということが美術史で言われるのか、という問題である。

17世紀オランダやフランドルの絵画あたりから、絵画が商品化の度合いを急速に増したことには私も気づいており、印象派の頃のパリはさらにそれが加速した時代だという感じは持っていた。そして、現在もやたらと印象派などが称揚されるのもその線上に位置するものと捉えている。すなわち、「商品としての絵画」として扱われ、そこに関心をひきつけるための「古典としての印象派」が称揚されるのだと。

本書での説明によって、現れたばかりの印象派が叩かれたことも、以上と同じ商品化という文脈の中に適切に位置づけられたことになる。これは収穫であった。

 意外なことに、ルネッサンス以降の写実的な絵画で、太陽の形をはっきりと描いた作品はきわめて限られている。(p.83)



「光」が描かれることはあっても「太陽」は描かれることはないということだろう。これはあまり意識したことがなかったかもしれない。クロード・ロランの太陽はその中にあって特異な存在であり、ターナーを経由して印象派(モネ)に影響を与えたとする流れは興味深い。もちろん、ヴェネツィア派などを軽視してはいけない(本書の扱いよりはもう少し大きく取り扱ってよいのでは)とは思うが、まぁ、美術史という文脈ではなく、印象派に焦点を当てるという文脈で捉える限りは、しょうがないかという気もする。

次に行くフランス旅行との関連で興味深かったのは、次のようなパリの近代都市化と印象派の誕生の関連性である。

 この頃、パリの街頭には重大な変化が訪れていた。
 オスマン知事の敢行した大改造で美しく整備されたパリの路上に、カフェが椅子とテーブルを出し始めたのである。
 こうしてパリの路上は、道行く人々とカフェの人々が互いを見物し、品定めにも似た視線を交し合う劇場的な空間となった。今日、私たちの知っている都市のありようが確立し、街路の散策にくつろぎを見出す「遊歩者(フラヌール)」という近代都市に特徴的な人々が出現したのである。(p.106)



そして、西岡氏は、このフラヌールというあり方が印象派と深く関わっているとする。

マネの画面が、ボードレールが『パリの憂鬱』に登場させた「遊歩者(フラヌール)」の視点で描かれているのに対して、むしろルノワールの画面は、プッチーニが軽歌劇『ラ・ボエーム』に登場させた「放浪者(ボヘミアン)」的な視点で描かれているのである。
・・・(中略)・・・
 近代都市のフラヌールに特有の心理が群集の中の孤独であったのに対して、ボヘミアンの心理は放浪生活に特有の自由さにある。管理社会の都市住民が失った楽天的な牧歌性を象徴するのが、ボヘミアンであった。
・・・(中略)・・・
 フラヌールとしての画家のイメージは、この牧歌的なボヘミアン気質が、近代都市にふさわしく変貌したものといえる。両者は、一般の市民生活からは縁遠い自由の天地に生きる「異邦人」的な存在である点では同じであった。
 この異邦人性は、後期印象派の画家たちには、さらに極端な特徴として表れる。(p.118-119)



次は行為と観察の関係という観点から見て、私には興味深い。

モネの求める瞬間の「印象」は、なおも画家の目と手をすり抜け続けていた。それほどに、モネの探求は遠く高いものだったのである。(p.167-168、強調は引用者)



河本英夫のオートポイエーシス的な立場から見ると、モネの求める「印象」はそのまま描くことは出来ない。「印象」が現れることは感覚する「行為」の次元にあるが、それを絵として描くことは「観察」の次元にある。観察による記述は行為の感覚を捉えるには常に遅すぎる。その意味で、モネたち印象派が用いた絵の具を混ぜないで絵を見る人が見るという行為の中で色を混合させる手法は、合目的的な手法であるといえる。

その場合、絵画は画家が書いた時点で完成するのではなく、見るものが絵画を見ることによって第二の完成を見ることになり、さらに、人々が、絵画を離れた日常の生活においても、絵画を通して体得した見方を絵画以外の世界にも拡大することによって、「世界」の美しさを認識するときに第三の完成を見るというべきかも知れない。そして、完成という言葉を用いても、それは完了を意味しない持続的に「完成し続ける」という行為の連鎖を引き起こす触媒として絵画が機能するということを示すだけにすぎない。つまり、一つの連鎖が成立するときを、暫定的に「完成」と呼んでいるわけだ。
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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