けれども、私はダーウィン主義の理論をほとんど最上のかたちで――ほとんど最大にテスト可能なかたちで――取り上げたと信じている。この理論はきわめて多種多様な生命形態を「大体のところ予測している」とはいえるかもしれない。だが、他の諸分野では、その予測力は適応を説明しているようにみえ、また一応はともかく説明してはいる。けれども、ほとんど科学的な仕方でではない。現在生きている種は環境に適応していると述べることは、実際のところ、ほとんどトートロジカルである。事実われわれは、種が適応していなかったとしたら自然淘汰によって排除されてしまっていたであろうといえるように、「適応」と「淘汰」という言葉を用いているのである。同様に、もしある種が排除されてしまたっとしたら、その種は環境にうまく適応していなかったにちがいないのである。適応または適合性は近代進化論者たちによって生存価として定義され、生存の実際的成功によって測定される。これほど薄弱な理論をテストしうる可能性はほとんどない。 それにもかかわらず、この理論の価値は計り知れぬほど大きい。この理論がなかったとしたら、われわれの知識がダーウィン以降なしとげたような進歩をいかにして達成できたのか私には理解できない。たとえば、ペニシリンに適応するようになるバクテリアの実験を説明しようとする場合に、自然淘汰の理論が大いに役立つことはまったく明らかである。自然淘汰理論は形而上学的だけれども、きわめて具体的で実際的な諸研究に多くの光明を与える。(p.134-135、本文の傍点部は引用文では下線を付した。)
ポパーによると自然淘汰理論は「形而上学的研究プログラム」だというわけだが、これは「科学的研究プログラム」以外の知識や理論にも価値がありうるということを示している。
思想史でポパーが扱われる場合、「テスト可能性」や「反証可能性」を強調するあまり、ポパーは科学的研究プログラム以外のものには高い評価を与えないかのような印象を受けるが、ポパー自身もそうした狭い判断基準だけでは割り切れないことはある程度理解していたようである。
私としては、なぜ、この「適応」という形而上学的研究プログラムは「実際的な諸研究に多くの光明を与え」うるのか、そのメカニズムにより多くの興味がある。というのは、明らかにすべての形而上学的研究プログラムがこれと同様の豊かさをもっているわけではないからである。
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