アヴェスターにはこう書いている?
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アマルティア・セン 『貧困の克服――アジア発展の鍵は何か』

 飢饉やその他の重大な危機が生ずる際のきわめて重要な特徴は、不平等の存在です。もちろん、民主主義の不在は、それ自体が不平等であることにほかなりません。この場合には政治的権利と政治的権力の不平等を意味します。(p.39)


こうした事実を示したことがセンの功績の一つとされているらしい。本書の随所でセンが語る民主主義のイメージはやや理想化されすぎているところがあり、説明に「やや強い仮定」が前提されている箇所があるように私には見えたが、それでもなお彼の議論には傾聴に値するところがあると感じさせるものがある。



経済が急成長している最中はさまざまな社会集団がすべて同時に利益の恩恵を享受しています。この意味で、さまざまな社会集団が得られる利益は実質的に一致しています。
 それでも、経済危機が発生した時に、どの社会集団に属するかによって、境遇にかなり激しい格差が生じるのです。社会は、経済が上昇気流に乗り続けている時には連帯していても、下降時には、分裂しながら落ちてゆきます。経済情勢が破綻をきたして転落する時には、ニセモノの社会的調和の感覚は引き裂かれてバラバラになる可能性があります。
 たとえ上昇期には社会が調和的であっても、下降期に分裂が生じるということも、危機の研究から学ぶべき大事な教訓のひとつです。東アジアや東南アジアの国々が近年経験したよりもはるかに壊滅的な危機も頻発します。しかし、深刻な飢饉が発生した場合でも、その国の大半の人々は食べてゆくために十分なものを手に入れられる状況もあり得るのです。
 実際には、飢饉が人口の5%以上に被害を及ぼすことは稀であり、それが10%以上にのぼることはまずありえません。このことが、飢饉を食料総供給量や一人あたりのGNP(国民総生産)あるいはGDP(国内総生産)の平均といった数字の集計によって分析しても、何の役にも立たないという理由の一つになっているのです。
 因果関係を正しく分析するためには、さまざまな社会集団に属する人々が持つそれぞれのエンタイトルメントに注目しなければなりません。エンタイトルメントとは、食糧その他の生活必需品の購買力、突然に起こる権利の剥奪からおのれの身を守るなど個々の具体的な能力のことですが、それらに分析の焦点を絞らなければなりません。なぜならば、他の社会集団にとっては些細な問題でしかなく、被害や悪影響を受けない場合でも、ある社会集団のエンタイトルメントだけが全面的に破壊されることもあるからです。(p.42-43)


前段の経済が上昇している時期と下降している時期についての社会集団の統合の問題は、現在下降中の日本や現在上昇中の中国、それから将来その中国が下降期に入るであろう事を思うと、なかなか興味深いものがある。

日本では下降期になり、それが定着してから「格差」という名目で「貧困」問題が語られるようになった。中国は上昇中ですら社会集団の統合に問題があるのだから、下降期までにある程度問題をうまく解決していかなければ、社会の統合は難しくなるだろう。だから、私は差し当たり今後20年は中国は紆余曲折はありながらもある程度うまくやっていくと思っているが、それ以後の試練に中国共産党が耐えられるかどうかにはやや疑問を持っている。センの議論はエンタイトルメントに着目してそのことを補強してくれるものである。

また、彼のエンタイトルメントという概念も極めて重要であり興味深い概念である。センはかなり人間の主体性を重んじているようだから、この概念を「能力」と規定しているが、もう少し一般的な社会学などの見方に治せば、これはそうした能力を発揮させるための、政治・経済を含む社会的及び物質的な諸条件と規定することも不可能ではないように思う。

私はセンの議論についてはほとんど何も知らないので、これ以上書くことは避けるが、本書を読んで、今後、センの書いたものを少し読んでみようという気になった。



市場システムが生み出す経済的インセンティヴだけに集中して、民主主義制度によって保障される政治的インセンティヴのほうを無視すると、非常に不安定な基本原則を選択することになります。(p.68)


これもセンが何度も繰り返している主張なのだが、大枠としてはその通りだと考える。

民主主義制度によって保障される政治的インセンティヴとは、広範な人々が相対的に平等に政治的権力を持つ事によって、政府が主権者である人々の要望に従って行為するよう促されることを指している。ただ、デモクラシーの制度がそれを保障しているかというと、それはやや言いすぎの面があるように思われるし、また、センのモデルではデモクラシーの主権者はある程度聡明で理性的に物事を判断できる個人が想定されているフシがあり違和感がある。

というのは、例えば、日本でいわゆる「B層」によって小泉が支持されていたというのが事実だとした場合、十分なエンタイトルメントがない彼らが一番「痛み」を感じることになり、建て直しが効かなくなりつつあるという現象を軽く見ることになるからである。もちろん、最近は「上げ潮派」など、小泉的な構造改革を支持する連中は人気がなくなってきており、こうした転換が可能であるのもデモクラシーなればこそではあるから、ある程度はセンの図式も大枠としては当てはまるのだが、どうも説明がキレイすぎる(捨象された要素が多いモデルである)のが気になってしまうのである。



 民主主義が“ふつうの”政治的統治の形態とみなされるまでに、その概念が定着したのは、二十世紀になってからのことです。今ではヨーロッパ、アメリカ、アジア、またはアフリカのいかなる国家であろうと、その政治的統治の形態を得る権利や資格を持っているのです。
 民主主義の概念を普遍的なものとして理解するようになったのは、かなり最近のことであり、それは純粋に二十世紀の産物といえるでしょう。(p.103-104)


これは「主権国家」の概念と「民主主義」の概念が近代ではほぼ表裏一体であることの反映であろう。世界中の「国家」がほぼ「主権国家」となったことから、その主権の範囲内の住民が区切られることになり、そうやって区切られた人々がいるからこそ参政権を持ちうる人の範囲が決まり、デモクラシーを制度化できる前提が揃うのである。システムとしてだけでなく、概念的にもほぼ同じことが言える。



 世界の金融システムは、世界銀行、IMF(国際通貨基金)、WTO(世界貿易機関)その他の、私たちが過去から譲り受けた機関によって構築されています。
 後に整備されたWTOを除くこれらの制度的構築の大半は、第二次世界大戦終結間近に開催されたブレトンウッズ会議終了後、1940年代半ばに設立されました。しかし、この金融の枠組みは、その当時に大問題とみなされたものに対応してはいましたが、現在では世界情勢もたいへん異なってきています。(p.147)


なかなか興味深い指摘。

ブレトンウッズ体制が崩壊し、金融自由化が進んできたことがグローバル化であると私は捉えているので、今日の金融グローバル化を担う制度を動かす機関がブレトンウッズ体制の産物であることは大変興味深い。当然、その役割や位置付けは当時とは変わっていると見るべきだが、それにしてもそれがどう変わったのかを統一的に捉え返してみると面白いかもしれない。

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