アヴェスターにはこう書いている?
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藤藪貴治、尾藤廣喜 『国のモデルとしての棄民政策 生活保護 「ヤミの北九州方式」を糾す』

 しかし、生活保護法4条は1項で「保護は、生活に困窮する者が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用することを要件として行われる」としているものの、2項では「民法に定める扶養義務者の扶養及び他の法律に定める扶助は、すべてこの法律による保護に優先して行われるものとする」と規定している。「資産」と「稼働能力」の活用は保護の要件であるが、「扶養義務者の扶養」は、「優先」であって要件とはなっていない。つまり親族がいても、現実に困窮しているならば、保護は開始される。その後に本人とケースワーカーが親族に援助を依頼し、援助を得られるようになった時点で保護費からその分差し引くことしか法は定めていないのである。
 「親族の扶養義務の活用」を保護要件とすれば、天涯孤独の人しか生活保護が受けられなくなってしまう。北九州市の『面接業務手引き』自体が間違っていたのだ。(p.53-54)


補足性の原理(第4条)の解釈について、この記述のおかげでスッキリ理解出来たように思う。これまでは1項と2項で分けて書かれている意味が今一歩よくわからなかったというか、「優先」の意味がはっきり理解出来ていなかった。こういう意味なら理解可能だ。

本書はここで、悪名高い「水際作戦」の際に、扶養義務者の扶養が保護の用件であるかのように扱われていることを批判しているのであるが、申請の前の「相談」というステップが設けられ、その相談の場で保護を受給する前に扶養義務者の援助を受けるように行政側が勧めることは、それほど大きく間違っていないように私には思われる。

本書で紹介されているような北九州市のように面接ボイコットまでするような「水際作戦」は明らかに異常だが、逆に、ほとんどすべての申請を受理したときに福祉事務所が処理しきれる体制が保証されているかどうか、という実質的な観点から見れば、「水際作戦」を批判している側の論理は現実を見ない理想論の類であるように思われるのである。

生活保護のケースワーカーの設置基準は市で80世帯に1人、町村部で65世帯に1人だが、この基準はそれこそ数十年前に決められたものである。その後の福祉政策がパッチワーク的に積み重ねられてきており、それが過度に保険主義化されて運用されていることや、生活保護制度自体が度重なる「適正化」政策により変質させられているために、現場で運用される制度の複雑さや事務量の増加はかなりのものになっている。その上、福祉関係の予算は増えないように抑制され続けており、実際には基準どおりには人員が配置されていないことは有名である。

こうした状況下で運用せざるを得ない生活保護制度において、制度の適用が可能かそうでないかギリギリのラインの人々については極力受け入れないようにするというバイアスがかかることはごく自然なことであるように思われるのである。これが行き過ぎると、本来なら当然受給できる人まで追い返されるということが常態化してしまうことになる。

だから、生活保護の「適正化」を批判する人々は、単に「水際作戦」や「辞退届」を強要するような運用を批判するだけでなく、より一層の体制の充実を訴えなければならず、そのための予算の確保ができる財政のあり方を提言しなければならない、というのが私の考えである。ここまで考えずに、運用ばかりを主として批判することは、底が浅いのではないか。そして、体制の充実のためには、歳出削減――「無駄をなくせ」という名目で語られることが多いが、それは「適正化」政策を助長する言説でもある――などを言うよりも、増税が必要であり、それも累進課税が適切であるということは、これまで当ブログやメインブログで何度も述べてきたところである。



 生活困窮に陥った母子世帯は、早めに保護しないと、子どもは十分な食事をとることができず、学校にも行けなくなる。さらには、母に過重なストレスがかかり、子どもに暴力をふるってしまう状況にも陥る。生活困窮は養育放棄や身体的虐待といった児童虐待をも産み出すハイリスクなのである(児童虐待防止法2条、厚生労働省「子ども虐待による死亡事例等の検証結果等について」2006年)。
 福祉事務所がきちんと早期に生活保護法で「保護」していれば、児童虐待のリスクは激減する。北九州市の福祉事務所は児童虐待防止法上の責任機関でありながら、自らが児童虐待を誘発していると言われても仕方がないであろう。(p.89)


生活保護の現場(というか自治体と中央政府)が、そもそも予算がなくて締め付けられているため、あらゆる対応が近視眼的になっているのではないか。それがこうした現象が多発する背景要因の一つであることは間違いないと思われる。



たしかに不正受給者への厳格な対応は必要であろう。しかし、不正受給額は生活保護費総額の0.2%でしかない(2006年度北九州市資料)。(p.111)


本書では、北九州市の現場では、受給者はすべて不正受給者かその予備軍であると見なされる傾向にあったことが示されているのだが、0.2%の不正受給にばかり発想が集中するのは全体を見るゆとりを失っていることを示している。

北九州の場合、自立(保護廃止)させなければいけない人数をノルマとして設定していたようなので、このノルマを達成するために、受給者を不正受給者予備軍と見なす見方が共有されやすくなっていたのではないか。というのは、受給者に辞退届を書かせるには、受給者の粗探しを行ない、そこで見つけた「アラ」を利用して、受給者に資力や収入があるとみなしたり、稼働能力を活用していないと見なしたりする必要があるだろうからである。



「団体が123号通知の実施に反対するのはともかく、職員組合からの反対がなかった。他の都市では組合が反対していたが北九州ではそれがなかった」
 この記述は一体何を意味するのであろうか。たしかに他都市の生活保護関係者からも証言があるように、当時の北九州市職労の123号通知導入反対の取り組みが弱かったことは事実であろう。しかしそれは、北九州市職労が生活保護行政の在り方に無関心であったことに原因があるのではなく、北九州市当局が全国に先駆けて123号通知をスムーズに導入すべく、福祉事務所から北九州市職労の組合員を排除していったことに起因する。(p.113)


このあたりの認識は私が本書から得たものの中でも特に重要なところである。

◆北九州市では生活保護の現場から組合を排除したこと。

◆組合を排除した現場にはネオリベラリズムの政策(123号通知)が導入しやすかったこと。(他都市では反対があったため北九州市より導入が遅れた。)

◆より具体的には「ヤミの北九州方式」がシステム化された背景に労働組合の排除があったということ。

◆行政職員の組合はしばしば一般市民からは役所内部の利益団体であるかのように捉えられがちであるが、この事例はむしろ行政職員の労働組合も一般市民の権利の擁護のために闘っていたことを示していること。(公務員の労組は、行政が行うべき公共領域を保持するための闘争を現在も当局に対して行っているから、これは過去形の話ではない。)

労働組合は新自由主義の蔓延に対する最大の批判勢力であり、労組の力なくしてネオリベに対する抵抗は成功し得ないであろう。ここ数年、私はそういう認識を深めてきている。

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